山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

増位山随巌寺を御存じですか②

住職に話を聞いた。この寺は聖徳太子の命により高麗僧の恵便が開山。のち行基が中興した寺で播磨六山の一つで、姫路市内では最古の寺だそうです。はじめは法相宗だったが834年(承和元年)天台宗となり皇族、貴族、武士の信仰を集めた。平安時代に諸堂が整備され、山上には36坊もある大寺でしたが、1573年(天正元年)別所長治に攻められ全山焼失。1585年(天正13年)に秀吉によって再興されました。
圓教寺が逆に1578年(天正6年)秀吉が乱入して本陣とし、帰途仏像その他多数の寺宝を持ち去ったのとほま逆の扱いとなっている。
その寺と虚無僧の関係を聞きますと、別所長治焼き打ちの際、増位山から逃れた随厳寺の宗徒たちは、黒田職隆の指示を受けて白髭明神を奉じて佐土村(現・別所町)に移り、秀吉によって再建されたのち、増位山に戻ったが、その間僧兵たちは虚無僧となって潜んでいたことから、虚無僧発生の寺とされているそうな。
本格的な再興は江戸時代になって行われ、姫路城主・榊原忠次が菩提寺として再建整備に努めた。
参道ドライブウエーを下る途中にある、見晴らし台に設えられた石のオブジェ(写真)の中空を覗くと、姫路城がスッポリ入って見える。お城の後背として重要な位置にある自然の要害であれば、城主もこれを守り本尊とたよったことは間違いない。
もっと大切にされねばならない寺であるに違いない。
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