山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

2008-07-01から1ヶ月間の記事一覧

閑話休題③今日はおだやかで好い一日

今日は弘子ちゃんのお誕生日だけど、朝から肝臓(脂肪肝の初期)の定期検査のため、神戸中央市民病院にでかけた。検査が終わり支払のためロビーで待機していると、朗報を告げる電話が入った。この3ヶ月掛かって取り組んでいた案件成立を告げる確認でんわで…

『さんよう喫茶』番外

79歳のY老夫人の今夜お通夜に出かけた。この話は生々し過ぎて実名を書くわけにはいかないだろう。 あれはいつのころだったか、東京に居たはずの、親父の長兄・清寿の息子・二人の兄弟が明石にやってきた。長男は東京工業大学卒の技術屋で、次男は明治大学…

身近に感じる不動産動向①

昔を振り返つてみると、千尋の谷に懸かったか細いつり橋とは知らず、霧の中渡り終えて振り返って見れば、霧の晴れ間から遥かな谷底が垣間見えたような人生もやっとカウントダウンに時期に突入した今日この頃。 しかし日々の生活の糧を稼がねばならない状況に…

案内状小文復刻④

*一葉抜かしておりました。第141回 昭和36年10月1日の案内状をSCANー縮小アップ・ロードしました。 昭和36年といえば、戦後はや満15年を経て、社会は落ち着きを取り戻し、夫々の家庭においても、昭和の良き 時代の気風を取り戻し、大学を目指す連中も親…

案内状小文復刻③

第144回さんようクラッシック・レコード・コンサート 昭和36年11月19日 明石デパート4階中集会室 PM6:30-8:30 自分の能力の限界を痛切に思い知らされた時 『平々凡々たる無能な自分には 努力しようとあせればあせるほど 自分の新境地を開こうと 自分の心…

不動産経済原論①不動産仲介業との遭遇

明石駅前で「てんぷらマルイチ」を開店したのが、昭和44年(1969年)。飲食業のほうは、平成11年に、ついに『さんよう喫茶』を閉めざるをえなくなるまでの30年間。自己責任といえば聞こえがいいが、無我夢中・ある意味やりたい放題させていただい…

案内状小文復刻②

第126回クラシックステレオコンサート 昭和35年2月20日(土) 明石デパート4階中集会室 PM6:30 寒空を透かす強い光 受けてふくいくたる香を漂わす梅の花 水はぬるみ、芽生えの基礎もできた 純粋の若さで荒波の世の中に飛び出す巣立つ若者 やが…

案内状小文復刻①

第112回さんようクラッシックコンサート 昭和34年(1959年)5月9日(土) 明石デパート4階中集会室 午後6時30分より 濃くなった緑の丘を、緑の風が吹く 初夏の力強い光が反射して 澄んだ青空にかえる 若鮎が ピチ と川面にはねて 暮れ遠い太…

『さんよう喫茶』⑲クラッシックコンサートの舞台裏

最初のうちは、お店を会場にしての「さんようクラッシックコンサート」と名づけての開催でありました。勿論、お店の自慢のHI-FI(High-Fidelity)装置でのレコードコンサートであります。このHi-Fiも藤田兄の川崎航空機のお友達、松岡さんと言ったと思う。飛…

『さんよう喫茶』⑱さんようクラッシックコンサート概論

この時代、音楽を聴くのは専らレコード頼みでした。そのレコード再生装置がLPレコードとプレーヤーの出現で一変することになりました。喫茶店といえば、それぞれ店の持ち味を生かして集客をはかるわけですが、世の中も落ち着き、人々がデートにしろ、会社…

『さんよう喫茶』⑰藤田兄弟との出会い・カレンダー展

旧明石警察署にあった藤田酒店に秀才を謳われた修作・浩平の兄弟。兄の修作氏は神戸商大を卒業して、川崎航空機に入社早々。弟の浩平氏は灘高を卒業して、神戸大経営学部在学中。この兄弟はどうやら、さんよう喫茶のその後のイベントの有力協力者であり、ネ…

『さんよい喫茶』⑯テレビ狂騒曲

日本で最初にテレビ放送が開始されたのは、昭和28年(1953年)2月1日。その当時、テレビの価格は17インチで15万円、20インチで18万円。全国で受信契約者数は868.月額受信契約料は200円でありました。その波が明石にも押し寄せてきました。そし…

『さんよう喫茶』⑮糞尿譚転じて文化サロンとなる

さんよう喫茶の東側から西側への移転の理由は、映画館の糞尿が原因ではないかと思う。前にも言ったように、戦後庶民のささやかな娯楽の一端を担った映画館も、建物は戦前からのもの。連日殺到するお客が、手に汗を握り、声を嗄らして歓声を上げ、涙を流すつ…

『さんよう喫茶』⑭舞台は一転

小学5年になって、材木町に家を新築移転したことから、私の生活ぶりも一転。お店には学校の帰りに寄る程度となっていたと思うが、日常の生活がどうであったかよく思い出せない。なにせ両親はお店に懸かりっきり で、躾けなど受けた覚えが無い。映画を見て、…

『さんよう喫茶』⑬駅前生活からの脱出

親父の口癖であった「駅前で30年店を張っている」は実際は、36年間続き、私が共に商売したのは、その後半の15年間。しかし、小学生の頃から、店が忙しい時には自然とレジに立ち、つり銭を渡すことを覚える。この時分、実際一家団欒などと言っている暇は…

『さんよう喫茶』⑫おじちゃん5円お釣り

コーヒー茶碗6ケ、紅茶茶碗6ケをやっと買い揃えての開店であったが、ハイカラお洒落な親父にはうってつけの仕事ではなかったか。明石では、当時 国道筋向かえに有名店喫茶「コマドリ」があり、なんとか常連客をつけて経営を安定させたいと努力した。魚の棚の旦…

『さんよう喫茶』⑪ある意味素晴らしい家庭環境

学校の思い出はあまり浮かんで来ないが、この映画館街での暮らしは色々思い出す。そのころの国道2号線にしても、今では考えられないぐらい車の通行も少なくて、悠々とローラースケートを履いてアスファルトの上を走りまわる。お互いが車が来るのを見つける…

『さんよう喫茶』⑩ある意味素晴らしい家庭環境

かくして始まったはずの小学校生活。特に低学年の1・2年時代については殆ど記憶が飛んでしまっている。毎日早起きして登校していた筈が、いつも、明石神社の西、学校が見下ろせる、くの字坂に差し掛かると、すでに校庭では朝のラジオ体操が始まっていまし…

第22回明石市小学生駅伝大会

25年前・1982年(昭和52年) アンサンブルコンテスト開催と同時に始めたのが明石市小学生駅伝でした。明石陸上競技場と明石公園を会場・コースとして2kと1.6kの2コースを周回し、6名のメンバーがタスキを繋ぐという設定でした。明石陸上連盟の柴田先生・吉井先…

KON sushi  明石「渾」の味②

店内といってもカウンター9席の一人の職人が心を込めて握るにちょうどの構え。 店主のA君が私の顔を見るなり、思わずノケゾル格好でご挨拶。もう子供が大学生になるとは思えない昔どうりの童顔で迎えてくれました。 いまから30年前、明石小学校・5-6年生を相手…

鈴木照雄先生ご逝去を知る④

先生は昭和24.11.30から昭和43.3.31まで教鞭をとられた。戦後学校制度が再編成される激動の時代、新制大学としての神戸商科大学に赴任されたわけだ。担当講義はドイツ語と教養・倫理学でありましたが、今思えば、そのどれもが先生には苦痛そ…

『さんよう喫茶』⑨神戸大教育学部附属明石小入学(昭和23年1968年)

戦争中は、油の一滴は血の一滴と叫ばれ、一億総玉砕と信じ込んでいた人々も、さて終戦の玉音放送を聞いて、ハッと我に帰った。向こう3軒両隣りの箍が外れて、まさに戦後の上を下への混乱戦争開始となりました。上津橋から、元の四郎兄宅に転がり込むべく、…

サッカー命の日々⑲淡水サッカークラブ総会

7月12日、淡水サッカークラブ総会に出席。今回は超OBの皆さんを捕まえては、確認事項と質問に忙しい一日を過ごすことになった。まず驚いたのは、私が4回生の代で、監督をお願いした芝田薫先輩が亡くなっておられたこと。それもかなり前のこととか。あれ…

不幸中の幸い・56年目の現場検証

4歳にして、大空襲を逃れて拾った命を、もう一度拾い直すことになろうとは。よくよく、運に恵まれた男に思えるが、常に「不幸中の幸い」としか言えない『運』に恵まれ続けた60余年といえる。 この6月27日、東京都杉並区第10小学校の屋上天窓から、小学6…

明石大空襲⑤渡洋無差別爆撃

昭和12年8月15日、近衛文麿は「支那軍の暴戻を瘍徴して、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」という声明を発表して日中全面戦争への突入を宣言し、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍の派遣を決定した。そして同日、長崎県大村基地…

明石大空襲③津本陽氏談話引用

MSN産経ニュース2008.3.11配信【人、瞬間(ひととき)あのとき、作家 津本陽さん】からの引用。 空襲で知った人生の苦味 昭和20年1月19日午後の出来事を、作家・津本陽は生涯忘れることはないだろう。満16歳だった寅吉(とらよし)少年は、その日。川崎航空機明…

明石大空襲②永井荷風・津本陽

昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館を焼きだされた永井荷風が菅原明朗とともに、明石のやってきたのが6月3日。折悪しく菅原の実家に入れないため、近くの西林寺に12日まで滞在したと有名な断腸亭日乗に記述しています。「・・・明石の市街は近年西の方に延…

明石大空襲①承前

4歳の時、上津橋から見た、山の向こうの明らかに尋常でない紅紅と立ち上がる揺らぎに埋め尽くされた空の光景は、やはり世に言う「明石大空襲」の何回目かの齎したものに違いありません。今まで神戸新聞が終戦特集記事で谷村礼三郎氏(明石大門主宰)の話とし…

『さんよう喫茶』⑧昭和16年開戦ー20年終戦

少々世間を騒がせた顛末で所帯を持った清志さん(きよっさん)は意地から西新町の源床の町内に新居を構えた。勤務は新浜の鳴尾組とあれば、チャリンコでものの5分とは掛からない。11月22日に私が生まれて、12月8日が真珠湾攻撃・日米開戦、風雲急を…

『さんよう喫茶』⑦綾織り成して

清志親父にとって、錦江ホテル勤務から始まる明石の地での皆様との御縁は、その後も途切れることなく、まるで阿弥陀くじの糸を辿るように、附かず離れず生涯を通してのお付き合いとして、熟成されてゆきます。錦江ホテルOWNER明石の財閥・古谷家はその後ホテ…