山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

幻の東京オリンピック候補



今回の殿村氏訪問で頂いた古い資料の中に、学部2回・外島昭二郎氏が25−30年前に、兵庫のサッカー史編纂のため依頼された、淡水サッカーの歴史を「我がサッカー部」と題してまとめておられた文章コピーを頂戴した。
その中に「戦前の黄金期」の項があって、そこにあの幻の東京オリンピックの日本選抜候補の一件が記されてあった。
昭和11年(1936年)ドイツ・ベルリンでのオリンピック開催は、ヒットラー率いるナチス。ドイツの完全な宣伝の手段として完璧なまでに執り行われた。
その演出、全体主義の成果は今回の北京の比ではなかったといえる。
当時後の三国同盟を結ぶほど近しかった日本も、それに続けとばかりに、昭和15年(1940年)東京でのオリンピック開催を予定していた。
その前年昭和14年といえば、我が淡水サッカーが戦前の最盛期を迎えた頃で、関西一部リーグ戦では、今までに一度も勝てなかった名門京大を3:1で撃破し、強豪関学には0:3で惜敗したものの、念願のBIG2を果たした。
そして、昭和15年正月、始めて第4回朝日招待サッカー大会に駒を進め、関東学生サッカー界の王者明治大学に対戦して、専門学校チームが一歩もひけを取ることなく、0:2で敗れたものの俄然全国サッカーフアンの注目を受け絶賛を博した。
その当時のレギュラーメンバーを調べてみると、なんと神戸一・二・三中出身が9名に県立神戸一商が2名と戦前の一時期中等学校サッカー界を制覇した兵庫県下の名門校卒業生で占められていたことが分かる。
昭和14年夏に東京オリンピックの候補選手の強化合宿が慶大山中湖畔のグランドで計画されて、当時のメンバーの中から、室山和(9回)・水沢淳也・小畑儀広・小川陽次(11回)の4選手が選ばれた。特筆大書すべき快挙でありました。
・・残念ながら合宿出発のため神戸勢が三宮に集合した所で、オリンピック中止となり、涙を飲んで自宅に引き返したそうである。
まさに我が淡水サッカー全盛期の泣くに泣けない痛恨事でありました。
写真は高商11回ー13回の写真でありますから、かの幻の東京オリンピック日本選抜候補の3名が写っている筈。超OB回りをして確かめて参りますから。