山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

私的歴史観

明石大空襲⑤渡洋無差別爆撃

昭和12年8月15日、近衛文麿は「支那軍の暴戻を瘍徴して、もって南京政府の反省を促すため、今や断固たる措置をとる」という声明を発表して日中全面戦争への突入を宣言し、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍の派遣を決定した。そして同日、長崎県大村基地…

明石大空襲③津本陽氏談話引用

MSN産経ニュース2008.3.11配信【人、瞬間(ひととき)あのとき、作家 津本陽さん】からの引用。 空襲で知った人生の苦味 昭和20年1月19日午後の出来事を、作家・津本陽は生涯忘れることはないだろう。満16歳だった寅吉(とらよし)少年は、その日。川崎航空機明…

明石大空襲②永井荷風・津本陽

昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館を焼きだされた永井荷風が菅原明朗とともに、明石のやってきたのが6月3日。折悪しく菅原の実家に入れないため、近くの西林寺に12日まで滞在したと有名な断腸亭日乗に記述しています。「・・・明石の市街は近年西の方に延…

明石大空襲①承前

4歳の時、上津橋から見た、山の向こうの明らかに尋常でない紅紅と立ち上がる揺らぎに埋め尽くされた空の光景は、やはり世に言う「明石大空襲」の何回目かの齎したものに違いありません。今まで神戸新聞が終戦特集記事で谷村礼三郎氏(明石大門主宰)の話とし…

司馬遼太郎が書かなかった物語

司馬遼太郎は言う。『嘉永6年(1853年)と安政元年(1864年)の二度のペルー来航以来、日本は開国して近代国家を50年にわたって、営々として築きあげてきました。そしてその努力が、日本海海戦の最初の30分に凝縮された。まさにこれこそ、時代の圧搾空気だっ…