山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

司馬遼太郎が書かなかった物語

司馬遼太郎は言う。『嘉永6年(1853年)と安政元年(1864年)の二度のペルー来航以来、日本は開国して近代国家を50年にわたって、営々として築きあげてきました。そしてその努力が、日本海海戦の最初の30分に凝縮された。まさにこれこそ、時代の圧搾空気だった。しかしこれ以降この圧搾が出てこない。その後の40年かそこらで、日本は取り返しのつかない大失敗をやらかしたと。』
幕末・明治の時代は、考えてみれば、まことに多様性に富んだ時代だったとおもわれる。それが凝縮した場所がお江戸でありました。そのうえ薩摩・長州・肥前・土佐と、これが同じ国に同時に存在するのかと、目を疑うばかりに、なにから何まで異なった邦が鎬を削った時代。こんなバラェティは世界史上類をみないといっていいのではないだろうか。そんな、熱い熱いカオス(混沌)の中から、良いも悪いも
明治のリーダーがうまれて、次々と良いのが脱落したり、死んだりしてゆき、太政官政治という、権力の交代のみの結果となった際には、脇侍ばかりが残る結果となった。もっとも、今の時代はもっと酷くて、最初から脇侍ばかりといえる。いや侍といえる存在さえ無いのではないかな。・・との司馬先生のボヤキが聞こえてくる。
司馬遼太郎・本名福田定一は旧制大阪外国語大学・蒙古語科在学中に学徒出陣となり、兵庫県加東郡河合村(現在の小野市)青野ヶ原の戦車第十九連隊入隊を手始めに、満州四平の陸軍戦車学校を経て、満州牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第5小隊長となる。しかし、本土決戦の虎の子部隊として、新潟県さらには栃木県佐野市へと盥回しされたという。その体験を通して、当時の旧陸軍に代表される、まったく悲惨な結果を必然的に招いた日本の体質の馬鹿馬鹿しさを痛感され、それに較べれば、前述の維新後50年までは、なんとか夢をもって書きえた時代の最後であつたのでは。
日本人の悪い癖は、良きにつけ、悪しきにつけ、もたらされた結果に対して、真剣に向き合って徹底した反省・検討をしない点である。特に太平洋戦争に関しては、日本海海戦で大勝により、かろうじて戦勝国の名を得た後、国民は浮かれるにまかせて、道を誤り、大和魂という幻想に頼り、科学的研究を怠ったその上に、戦力逐次導入という戦術上最大のヘマをやらかし、おまけに兵站を無視した地獄へと、兵を追いやった。・・・司馬先生は周りから昭和史は書かないのですかと訊ねられた際、君は僕を殺す気なのかと返答したと言われる。何度か試みようとされた痕跡があるなかで、とくに太平洋戦争そのものを描くことは、その経緯・内容どれをとっても正気では書き綴れたもんじゃない。それほどの悲惨をもはや忘れ去っているとしか思えない今の我々。・・・本当はそう言いたかったのではないのかな。
司馬先生は、この時代を書かなかったのでなくて、とてもじゃないが書けなかったというのが本当だろう。