山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

荒城と古城「荒城の月」

旧制中学校の唱歌を編集する東京音楽学校(現東京芸術大学)が作詞を土井晩翠に依頼する際に示した題は「古城の月」だった。
しかし、彼が第二高等中学校の修学旅行で訪れた会津若松鶴ヶ城は古城の風流なイメージとは程遠い、荒れ果てた姿だった。晩翠はそのイメージになお故郷の仙台・青葉城のイメージを重ね合わせた。
そこで、なお作品の題を荒城の月と変えて提出した。
荒城の月の曲は公募され、この詞に何かを感じた滝廉太郎が曲を書いて応募し当選した。
この時、もしも古城を荒城とせずに公募していたら、廉太郎の曲想を掻き立てることにはならず、この名曲が生まれることもなかったのではないかな。
戊辰戦争で悲劇的な最期を遂げた会津には荒城がふさわしく、廉太郎は彼が少年期を過ごした大分県竹田市の岡城をモデルとしたと言われる。
一文字の添削が素晴らしい結果を生む。私とて古城とあれば歌う感慨もまた違ったものになる。