山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

独り言①疎開

神戸高知県人土陽会のゲストブックの場を借りて、徒然なるままに想いを書き綴る私の健気さに動かされたのか、当会HP管理をお願いしている野崎パソコンの真理子さんから、「つのしんの独り言」というコーナーへ強制疎開となりました。疎開と言えば、ほぼ死語となった感じですが、昨日3月10日はかの東京大空襲・63年の日とか。まさに疎開の言葉が身に沁みる。私の戦争体験と言えば、現在満66歳(昭和16年・1941)。昭和20年では3歳6ヶ月の頃。あとで聞くに、明石の川崎航空機工場めざしての度々の空襲を避けて、今の神戸市西区高津橋の農家に疎開していた頃。山の向こうの空が真赤に染まっていた情景を覚えている。弟の啓三がその農家の納屋で産声を上げた10日後が終戦。親父は戦時中新浜の鳴尾組・海運関係に勤務していたことから、重油を扱っていたらしい。戦時経済統制法違反で前科一犯ですが口癖でありました。引っ張られても自分1人で罪を被ったとか。そのせいで男を揚げて、戦後の喫茶出店のキッカケを掴むことになったそうな。あの戦争只中に二人の子供を抱えることの苦労はどんなだったかと問いかけても、その時はただ夢中でガムシャラに暮らしてきたとの感想。ただ食料不足は応えたらしく、戦後すぐは親父の兄の家に居候していた時、隣の部屋で従兄弟達が焼き芋を食べている気配に、私が欲しいとぐずりだし、いくら言い聞かせても泣き止ます、終いにどうして僕には当たらないのと責められたときは、思わずうだいて泣いたことがあるそうな。母が戦争だけは嫌が口癖だったのもそれゆえか。・・・戦災被害の方々の霊に合掌。