山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

サッカー命の日々⑦松本主将を悼む

e5ad7896.JPGこの2部復帰を祝っての祝勝会が、神戸・元町の中華料亭で賑々しく催された。喜色満面の先輩連が居並ぶうち、とくに喜ばれたのが、田中ラッチェル部長。先生は経済地理が専門で、信奉されていたドイツのラッチェル博士の名を取って、ついた渾名が『ラッチェル』。あと2年で定年を迎えられる先生のために、一部復帰を目指せとの声がそこここで上がる。もう主役は4回堀川英佑主将から次期松本靖弘主将へとうつっておりました。2次会のキャバレー行きに誘われたのも3回生ばかりと聞いています。そして迎えた昭和39年4回生レギュラーは松本・小嶋・吉田尚・渡辺・楠瀬。三大学定期戦、合宿をこなし勇躍臨んだ秋季リーグ。残念ながら、この時の順位・成績をはっきりとは覚えていないのです。・・たしか3-4位だったはず。・・それ程、3回生であった私の意識が低かった証拠。そんなことだから、4回生の一年、突如目覚めて奮闘しても、独りよがりのジラクラ舞に終わってしまった筈だ。一方松本主将は遊んでいるようで、遊んでいて、しかも優はチャッカリ稼ぎ、名門寺田ゼミにもぐりこみ、彼の地元の松下電器産業内定を早々取り付けて卒業された。小柄な身体で、目がいつもものを言っているようで、常に冗談を飛ばし、酒を愛し、ほんとストライカーうってつけのナイスガイでありました。ここまで懐かしむのには訳があって、卒業されてからも、現役が気になるとみえて、度々グランドに現れては、遊びがてら、励ましてくださり、特にリーグ最終の大阪府大戦前日には、みかねてかフォーメーションの再確認を、それもバレーボールを使って念入りに指導していただいた。そのおかげで、翌日大阪府大に3-0で快勝しやっと面目を果たすことが出来た恩があります。そんな松本主将が病を得られたのが、翌年のこと、どうも腹の調子が悪いと言い出した。しばらくしてどうやら直腸がんと判明。会社も休職されて治療に専念とうかがっていた矢先。忘れもしません、私が卒業した後の昭和41年のリーグ戦。奮闘むなしく2部転落を決定する入れ替え戦の前日、惜しまれながらのご逝去となってしまった。そして雨のそぼ降る中行われた入れ替え戦の応援に駆けつけたその足で、OB・現役が一団となって葬儀に参列するという、いまだ、忘れることの出来ない長い長い痛恨の内に過した一日。まことに悼んでも悼んでも悼み切れないとはこの事か。30余年後の今も松本主将の笑顔が目にうかんできます。・・・合掌