山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

『さんよう喫茶』⑦綾織り成して

清志親父にとって、錦江ホテル勤務から始まる明石の地での皆様との御縁は、その後も途切れることなく、まるで阿弥陀くじの糸を辿るように、附かず離れず生涯を通してのお付き合いとして、熟成されてゆきます。錦江ホテルOWNER明石の財閥・古谷家はその後ホテルを手放しその跡地は播陽幼稚園(匠園長)となり、つい最近明石勤労会館に姿を変えた。その御子息古谷錬太郎氏は神戸商大学部7回卒で川崎重工明石の部長様。川重明石の不動産案件について度々御助言をいただいている。錦江ホテルの次に勤めた松田文蔵商店は当時全盛のライジングサン石油代理店で重油から蝋燭や石鹸の原料も扱う商社で、下宿は長田区の尻池町辺りにあったと2号線を車で通るたびに、懐かしがっておりました。その松田文蔵商店には神戸高商生の御子息・ボンボンがおられて格好よかったんだよとも申しておりました。そのことを何気なく覚えておりましたところ、淡水サッカークラブの会長に高商1回の松田俊治先輩が就かれた総会で、松田新会長より、津野と言えば、まだ私がサッカーの現役だったころ、うちに勤めていた津野とは関係あるのかとのお話を頂いて、双方ともが親子2代での御縁に預かったことの不思議さにしばし感嘆したことでした。その後戦争直前に、OIL関係から明石の鳴尾組の経理に転じ、ここでの上役が後に明石駅前再開発を一手に引き受ける永田政市。運送の川崎航空機関連で明石組運輸の藤原巻三等の知遇を得ている。その鳴尾組勤務中、戦争も終盤を迎えるころ、重油の闇に無理やり一役かわされて、それがたちまち発覚し、戦時経済統制法にて前科一犯となった。このとき親父は首謀者とまではいかなかったが、罪を一身に被り、関連者の名前を白状しなかったことで、かなりの貸を各人に作った。このことで親父にある意味信用がついたのは確かだ。留置場に入れられている間、関係者が母親にホント良くしてくれたらしい。もちろん口止めのためだろうが、親父にすれば、留置場に入るのは須崎で賭博の現場で網にかかって以来2度目となり、そんなに慌てはしなかったと、したたかなことを言っておりました。敗戦とともに、戦時犯は帳消しとなり、晴れて親父の前科も消えて無くなったそうな。変わったところでは、伊藤悌さんの御縁(奥さまの里)から藤田修作(川航明石事務局長)・浩平(シェル石油)兄弟と知り合い、バラ展および次項で詳しく述べる「さんようクラッシックコンサート」などを始めるようになる。ちなみに、伊藤悌氏の御令嬢がかのジャイアント馬場の御令室であります。