山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石市追手町・人生の揺籃

2葉の写真を発見

前々回、学芸会で思いがけず大役を演じたはなしをしました。もちろん主役ではなくて、ひねくれ子役で、みんなに迷惑をかけるが、最後に土下座して謝るという損な役回りだった。その時の写真が残っていました。講堂の舞台上での集合写真。めくりに「劇・友情 …

想いは繋がって

その清水先生が育友会費の使い込みが発覚して大事件になったのを聴いたのは、同じ敷地内に隣接する附属明石中学へ進学して間もなくのことでありました。こんなことを書くと怒られるが、附属小の同級生を見ても、ほとんど兄弟・姉妹が入学している。事実わが…

神戸大学教育学部附属明石小学校時代のこと①

4年生の秋、階段を8m墜落したころから、なぜか勉強に勢を出すようになりました。なにしろその当時コアカリキュラムと称して戦後の民主教育の旗頭となっていた清水一郎先生に、あろうことか、親父が「ちょいと、絞めてやって下さい。」と頼んだらしく、親…

SCREEN MUSIC

云わばさんよう喫茶を基地にして、日ごと夜ごと映画館街5軒を順繰りに顔パスで木戸・モギリをくぐり抜けて、映画を見続けた。その当時、私ほど映画を見ていた餓鬼は居なかったことだろ。それも歳を食ってくるに従って、洋画を好んで見るようになった。実に…

『さんよう喫茶』番外

79歳のY老夫人の今夜お通夜に出かけた。この話は生々し過ぎて実名を書くわけにはいかないだろう。 あれはいつのころだったか、東京に居たはずの、親父の長兄・清寿の息子・二人の兄弟が明石にやってきた。長男は東京工業大学卒の技術屋で、次男は明治大学…

『さんよう喫茶』⑲クラッシックコンサートの舞台裏

最初のうちは、お店を会場にしての「さんようクラッシックコンサート」と名づけての開催でありました。勿論、お店の自慢のHI-FI(High-Fidelity)装置でのレコードコンサートであります。このHi-Fiも藤田兄の川崎航空機のお友達、松岡さんと言ったと思う。飛…

『さんよう喫茶』⑱さんようクラッシックコンサート概論

この時代、音楽を聴くのは専らレコード頼みでした。そのレコード再生装置がLPレコードとプレーヤーの出現で一変することになりました。喫茶店といえば、それぞれ店の持ち味を生かして集客をはかるわけですが、世の中も落ち着き、人々がデートにしろ、会社…

『さんよう喫茶』⑰藤田兄弟との出会い・カレンダー展

旧明石警察署にあった藤田酒店に秀才を謳われた修作・浩平の兄弟。兄の修作氏は神戸商大を卒業して、川崎航空機に入社早々。弟の浩平氏は灘高を卒業して、神戸大経営学部在学中。この兄弟はどうやら、さんよう喫茶のその後のイベントの有力協力者であり、ネ…

『さんよい喫茶』⑯テレビ狂騒曲

日本で最初にテレビ放送が開始されたのは、昭和28年(1953年)2月1日。その当時、テレビの価格は17インチで15万円、20インチで18万円。全国で受信契約者数は868.月額受信契約料は200円でありました。その波が明石にも押し寄せてきました。そし…

『さんよう喫茶』⑮糞尿譚転じて文化サロンとなる

さんよう喫茶の東側から西側への移転の理由は、映画館の糞尿が原因ではないかと思う。前にも言ったように、戦後庶民のささやかな娯楽の一端を担った映画館も、建物は戦前からのもの。連日殺到するお客が、手に汗を握り、声を嗄らして歓声を上げ、涙を流すつ…

『さんよう喫茶』⑭舞台は一転

小学5年になって、材木町に家を新築移転したことから、私の生活ぶりも一転。お店には学校の帰りに寄る程度となっていたと思うが、日常の生活がどうであったかよく思い出せない。なにせ両親はお店に懸かりっきり で、躾けなど受けた覚えが無い。映画を見て、…

『さんよう喫茶』⑬駅前生活からの脱出

親父の口癖であった「駅前で30年店を張っている」は実際は、36年間続き、私が共に商売したのは、その後半の15年間。しかし、小学生の頃から、店が忙しい時には自然とレジに立ち、つり銭を渡すことを覚える。この時分、実際一家団欒などと言っている暇は…

『さんよう喫茶』⑫おじちゃん5円お釣り

コーヒー茶碗6ケ、紅茶茶碗6ケをやっと買い揃えての開店であったが、ハイカラお洒落な親父にはうってつけの仕事ではなかったか。明石では、当時 国道筋向かえに有名店喫茶「コマドリ」があり、なんとか常連客をつけて経営を安定させたいと努力した。魚の棚の旦…

『さんよう喫茶』⑪ある意味素晴らしい家庭環境

学校の思い出はあまり浮かんで来ないが、この映画館街での暮らしは色々思い出す。そのころの国道2号線にしても、今では考えられないぐらい車の通行も少なくて、悠々とローラースケートを履いてアスファルトの上を走りまわる。お互いが車が来るのを見つける…

『さんよう喫茶』⑩ある意味素晴らしい家庭環境

かくして始まったはずの小学校生活。特に低学年の1・2年時代については殆ど記憶が飛んでしまっている。毎日早起きして登校していた筈が、いつも、明石神社の西、学校が見下ろせる、くの字坂に差し掛かると、すでに校庭では朝のラジオ体操が始まっていまし…

『さんよう喫茶』⑨神戸大教育学部附属明石小入学(昭和23年1968年)

戦争中は、油の一滴は血の一滴と叫ばれ、一億総玉砕と信じ込んでいた人々も、さて終戦の玉音放送を聞いて、ハッと我に帰った。向こう3軒両隣りの箍が外れて、まさに戦後の上を下への混乱戦争開始となりました。上津橋から、元の四郎兄宅に転がり込むべく、…

不幸中の幸い・56年目の現場検証

4歳にして、大空襲を逃れて拾った命を、もう一度拾い直すことになろうとは。よくよく、運に恵まれた男に思えるが、常に「不幸中の幸い」としか言えない『運』に恵まれ続けた60余年といえる。 この6月27日、東京都杉並区第10小学校の屋上天窓から、小学6…

『さんよう喫茶』⑧昭和16年開戦ー20年終戦

少々世間を騒がせた顛末で所帯を持った清志さん(きよっさん)は意地から西新町の源床の町内に新居を構えた。勤務は新浜の鳴尾組とあれば、チャリンコでものの5分とは掛からない。11月22日に私が生まれて、12月8日が真珠湾攻撃・日米開戦、風雲急を…

『さんよう喫茶』⑦綾織り成して

清志親父にとって、錦江ホテル勤務から始まる明石の地での皆様との御縁は、その後も途切れることなく、まるで阿弥陀くじの糸を辿るように、附かず離れず生涯を通してのお付き合いとして、熟成されてゆきます。錦江ホテルOWNER明石の財閥・古谷家はその後ホテ…

『さんよう喫茶』⑥西新町スキャンダル

『さんよう喫茶』の項は2008・4・25の⑤から2ヶ月以上のご無沙汰でした。東京から追い返された親父が四兄・岡田四郎を頼って明石に身を寄せたのは、昭和10年三縄ー豊永間が開業して旧高知線区間が多度津側と一続きになって、須崎ー多度津間を土讃線とさ…

『さんよう喫茶』⑤

この四郎兄には、前に書いたように、このあと何かと世話をかけることになりますが、尋常高等小学校を卒業後、役場の給仕を勤めるかたわら、独学で会計士の資格を取ったという出来人で、この明石税務署勤務中、会計検査に入った日本工具株式会社を余程締め上…

『さんよう喫茶』④

その頃の悪友の一人が、鍋島平八郎小父さん。網が下りたときも一緒に捕まった仲間。親父が大切に保管していた100枚つづりのネガブックにも度々顔がでてくる。究めつけは、神戸・湊川神社でのお袋とのデート写真にまでその姿がある。本当に嬉しそうに、親父と…

音楽喫茶『さんよう喫茶』③

山陽電車の経営する映画館・山陽座附属の喫茶。あえて『さんよう喫茶』と平仮名にしたあたりが、清志さんのセンスのみせどころか。ここで親父について脱線する。・・・親父・清志さんは土佐の須崎は上分在で9人兄弟の8番目の五男。信太郎爺さんのアイデア倒…

JAZZ喫茶乃至音楽喫茶『さんよう喫茶』②

今になって、この66年を振り返ってみると、時には穏やかな表情をみせるかと思うと、まるでJETコースターに乗せられて、しがみついているだけで精一杯の奔流に姿を変える一筋の流れ(人生の表層)ながら、その底辺には通奏低音の如く、響き続けている、さまざま…

閑話休題・ジャズ喫茶乃至音楽喫茶①

土陽会事務局長・島本和幸氏から、3月31日、再手術のため神戸中央市民病院に入院が決まったとの連絡あり。となれば、第5回龍馬IN神戸の雑用からなにから、ひとりでやらねばならないことにとなりにけり。氏の無事を祈りつつも、30日3時ころから、神戸ポートタワー…