山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

献水60年

 広島といえば弘子ちゃんの爺さんが江田島の地続き能美島で海運業を営んでいた関係で、原爆投下直後、市内太田川河口に仕事で出かけていた伯父さんの安否を気遣って捜索に行ったとか。その為被曝し、激しい症状までには至らなかったが、60歳にして胃がんを患って亡くなった。
その広島でこの60年、市内120ヶ所はある原爆慰霊碑を一日3-4ヶ所巡っては献水を続けている伊根利枝さん(90)のことを報じていた。
その水もわざわざ教順寺という広島市内を眺められるお寺の滝の観音から汲みとっての献水であるという。
このことは『夏の花びら』という本にまとめられているとか。
被爆した人々が最後に求めたのが一杯の水だった。彼女はその時、その求めを叶えてあげることが出来なかったことを悔いての60年だ。
たまたま幸運にも命拾いをした人でさえ、ここまで心の重荷を背負わせた原爆。
このあと、長崎の原爆と続いたにも拘わらず、日本の戦争指導者、特に陸海軍部は国体護持の確証あるまではポツダム宣言の受け入れを峻巡した。
この時とばかりに、広島・長崎でそれぞれ違うタイプの原爆を実験投下した米国も米国なら、御前会議でのポツダム宣言受諾の是非を問われて、10人中5-6人が反対・時期早尚を唱えた。ただ一人、切腹してけじめをつけた阿南陸軍大臣のみが、最期まで反対に回ったと知らされていたのとは違った真実があったのだ。
日本人の優柔不断もここまでくると殆ど病気だ。そしてこの傾向は雲上人のみならず、我々市井の民に至るまで持ち合わせている。・・・一体このザマはどこから由来しているのか。戦国武将があれほどの気概を持っていたことは確かで、何時の頃から日本人はかくも柔くなってしまったんだろう。