山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

メモリアル・ジャーニー⑦親父の大病

『 後に須崎の町、今の古市町に出てお風呂屋をやりだしてからは、燃料の古材運び・風呂がま焚き・番台と山のような仕事をこなしながらも、「清志よ」と用事を頼もうと思い呼ぶうちに「良し来た」とその要件も聞かぬうちに飛び出して行くような子だったと聞いて、どこやら我が家の三男の様子に似ていて、これも隔世遺伝にかわらん。親父が同級生に番台を代わってくれとせがまれて困ったといっていたな。』
この番台話はいろいろあって、同級生の女子が風呂に入りに来ると、目のやり場に困ったこととか、実際男の持ち物も千差萬別だが、女性もイロイロだったというのがくちぐせだった。
親父方の爺さんがお風呂屋ならば、お袋方の爺さんは散髪屋さんで、どちらに転んでも皆様方の垢を頂いて暮らしを立てていたわけだ。
『この風呂屋を開く一方で、朝日新聞の新聞配達店も手掛けていたらしい。
それというのも、親父は尋常高等小学校を卒業したあと、なんとしても上の学校にすすみたかったが、家がそんな状況ではとても学費がいる学校には行けない。とすれば、師範学校へ行けば勉強しながらお手当てもでると聞いて、勇躍受験。結果は不合格となって落ち込んでいるとき、水産学校も官費で行ける事を知り、これには合格したらしい。
チビで痩せぼしの親父が、しゃかりき頑張ったそうな。なんとかみんなに追いつき、追い越さないことには気がすまなかったんだ。
特に教練の遠泳がきつかった。とうとう心臓弁膜症を発症して寝込んでしまう。
叔母もこのときには、「清志ちゃんがもういかん」と覚悟を決めたそうな。
この時、次兄の良幸兄が高知から心臓病の名医といわれるお医者を招いて最後の診察をお願いした。
医者曰く、家に置いていては碌な治療も施せないとなって、入院するのに、親父を布団から持ち上げることも心臓に応えて出来かねる。ついには床下に潜りこんで、床板を切り取り、畳ごと持ち上げて、やっと運んだという。
このかい有って、一命を取り留めたと。この話をする度に、よくぞ助かったものよと何時も言葉を詰まらせた。
この治療とあとの療養が大変だった。莫大な治療費捻出のために新聞店の権利を売り払って賄った。
当分寝たきりの下の世話を快くしてくれたのがすぐ上の末子姉だった。
このことから、親父がこの両兄姉を大事にすることったら、息子の目から見ても、徹底したものだった。
それほどの難病を克服できたのも、この両兄姉のお陰だったと聞かされ続けた。
このことを叔母に話すと、ちょうど姉やんは離婚して帰ってきたときだったと話す。そしてこの経験からか産婆さんの勉強をして高知で産院を開くことになったとも。叔母が姉に勉強を随分と教えたがよと懐かしんだ。