山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬最後の帰郷⑦余談

 何しろ個人的に気になるのは、中城家を後にして、「龍馬ハ小島ヘ、中島ハ津野ヘ」Iの下りであります。
まず、小島というのは、龍馬を慕っていたと言われる川島家の田鶴が嫁いでいる家です。
田鶴は、二人扶持、切米八石の御歩行小島亀次郎の息子玄吉に嫁いでいた。亀次郎の妻千蘇は川島猪三郎の妹でしたから、玄吉と田鶴は従兄妹同志の夫婦で、二人はともに嘉永二年生まれ(1849)生まれの同い年。亀次郎の妹直は城下浦戸町の医師今井孝純に嫁いで純正を生んだが、改名して長岡謙吉となる。
「藩論」「船中八策」の起草者と云われる海援隊文司だ。そして龍馬の継母「北代氏之女ー伊與」の叔母は今井家に嫁いでいた。すなわち謙吉の祖母である。なんと濃厚な龍馬との結びつきであることか。龍馬を支えた濃厚な人間関係の原点が垣間見える。
一方、中村作太郎(信行)が向かった先の津野がどういう家で、中島とどういう関係が有ったのか、かなり調べたが今の段階では知りえていない。まことに残念だ。
後、海援隊で共に活動した陸奥の妹を妻にする中島は、明治維新後、信行と改称して新政府に出仕。外国官権判事兵庫県知事を務め、欧州留学を展開すると自由党副総裁や立憲政党の総理を務めた。
明治23年の第一回衆議院議員選挙に当選して初代衆議院議長を務め、貴族院勅選議員となっている。
その中島が尋ねた先が津野とあることが無性に嬉しい。というのも、関が原合戦の際の津野親忠自刃以来土佐の歴史に津野の名前が登場することは殆どなかった。
同じ家系の中平の名前は、たびたび歴史の節々に聞こえてくるのに。
いま、想像できるのは、中島作太郎の父猪之助が梼原から中島家の二女の婿として養子に入って居り、この地縁から津野に繋がっているのではないかと思う。決死の土佐潜入の際、あえて立ち寄った先は、縁者知人のうちでも心許せる先でなければならなかったはずだ。