山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

突っ込み龍馬伝③岡田以蔵と道頓堀

 最近商用で大阪・日本橋に度々出かける。その所用先は地下鉄・日本橋5番出口にあって、用事・打ち合わせが終つてビルを出ると、道の向えに黒門市場の入り口が見える。ついふらふらと誘われるように市場に足が向く。
大阪の台所、その活気もこのお昼の時間帯ではまだ人出も少ない。心おきなくブラブラ見物して歩く。
市場を出て、道具屋筋を冷やかし、千日前の吉本の看板を見上げながら難波に出るのがお気に入りのルートだ。
前のうちは、この難波から船場筋まで商店街を歩いても平気だったが、最近は戎橋・道頓堀辺りまでが限界となった。
ところで、龍馬伝でも顔を出している岡田以蔵が最初の暗殺をしたのがこの道頓堀・九郎右衛門町(浪速区難波1丁目)にあった料理屋「大与」の近くの川岸でのことだ。
武市半平太率いる土佐勤王党による藩参政の吉田東洋を暗殺を疑う、生前東洋に引き立てられていた、下横目・井上佐市郎と、この勤皇党のメンバーとが藩主・山内豊範の参勤交代で大坂に入った折、大流行していた麻疹のため、豊範をはじめ共回りが次々と罹患し、8月22日まで滞坂を余儀なくされた。
『維新土佐勤王史』によると、佐市郎は「元吉(東洋)の横死を悲しむ事深く、しきりに刺客の踪跡を探り、つねに勤王党を仇視して、報復の念止まざるより・・・」とのことで、平井収二郎は同志に佐市郎殺害をもちかけた。
その同志というのが、岡田以蔵・岡本次郎・久松喜代馬・村田忠三郎らであった。
さきに吉永良吉と小川保馬が佐市郎を料理屋「大与」に誘い出し、さんざん酔いつぶしておいて、連れ出したのが九郎右衛門川岸。待ち構えていた以蔵らが飛びかかり「以蔵は不意に手巾を佐市郎の首に投げかけ、力に任せて絞め殺し、また喜代馬は短刀にて横腹を刺し、死骸を道頓堀川中に突き流した」という。
それが、以蔵の最初の暗殺で、たぶん戎橋か大黒橋のすそから佐市郎を投げ入れた。
ひっかけ橋とか名前が付いた戎橋を渡るたびに思い出す因縁話。龍馬伝は拾ってくれるかな。