山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

長宗我部盛親と島津義弘③信親の悲劇-1

 稀代の『梟雄』元親が人、変わりしたのは、秀吉の九州征伐(対島津家久)の際の戸次川合戦敗戦による。
それは元親をはじめ四国軍が、島津軍に釣り野伏せを仕掛けられ壊滅的な敗北を喰らった戦でした。
天正14年(1586)12月。
日本列島の中原をほぼ制圧した秀吉は、九州進撃を考えた。その対抗戦略として島津家久は、九州全土を併合しようと精兵2万を率いて北上した。
豊後(今の大分地域)に侵攻した島津家久が、まず襲ったのが、大友宗麟系の鶴賀城である。城主の利光鑑教(かねのり)が戦死して落城間近であったが、島津軍に鶴賀城を奪われると、秀吉の九州征討の大きな障害となる。もちろんこの事態を秀吉が赦す訳がない。
秀吉は讃岐領主の仙石秀久を軍監にして、長宗我部元親十河存保(まさやす)の四国勢に出陣を命じた。元親は長男信親を軍陣に加えて、鶴賀城救援に向かった。
信親は二十二歳、身の丈は六尺一寸(約1.85メートル)の屈強な若武者である。
3尺5寸(106㎝)の長刀を振るい、勇猛果敢な後継ぎを元親は信頼していた。
戸次川の対岸に屹立する鶴賀城を観望しつつ、四国勢は軍議を開いた。
対岸に島津軍の姿は見えない。物見を放っても敵兵の影すら認めない。
その知らせを受けた軍監の秀久がー即時、渡河攻撃 を主張した。これに存保も同意。
一方元親は長い戦の経験から慎重策を口にした。四国勢は6千で兵力不足であり、秀吉本軍の出陣をまつべきであると。
だが島津軍の姿が見えず、功に逸る秀久は、軍監の立場を押し通して、渡河進撃を決定した。四国勢は戸次川の浅瀬を渡り、川岸に沿う戸次(へつぎ)庄の野原に向かった。