山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

津野興亡史

津野興亡史⑧経高より家時に至る・その1

経高は、康保(こうほう)2年12月2日、年74歳で没した。この時の士民らの悲嘆は誠に深いものがあった。 その為、領内至る所で読経の声のみ高らかに響いていた。 実に須崎の浦に経高が姿を現してから53年の永い年月が経ったものであって、その間に成し遂げた…

武田氏異聞・大崎玄蕃

武田勝頼土佐の会によれば、かの武田信玄の4男である甲斐武田家20代当主「武田勝頼」は定説では天正10年(1582年)天目山で自害したとされているが、高知県吾川郡仁淀川町に残る影武者説では、武田勝頼は織田軍からの敗走後、当時の土佐の武将・香宗我…

津野興亡史⑦敬神家の経高

こうして経高は津野の庄の領主として、1千町を有する身となったので、先ず如何にしてこの土地を開拓し、如何にして人民を統治して行こうかと考えた。自分の領地を良く開拓統治して繁栄せしむるのは自分の責任と言える。 この大責任を我々の力だけで叶えら…

津野興亡史⑥梼原村の名の起源

領主から許可を得た経高は、家臣を率いて、津野村の床鍋に移り、永住の地と定めたが当時この地は山又山の狭間にある深い谷間で、生活に必要な衣食の道にさえ困難する位であって、このままでは到底永く止まることが出来ない。しこで経高は自ら先頭に立って家…

津野興亡史⑤経高は何故土佐に来ることになったのか

さて、この経高は如何なる人の子孫で、如何なる罪を犯し、また、如何なる理由で土佐にやって来たのか。 之について遡って述べると、、そもそもこの山内蔵人経高は、藤原氏の出であって、祖先はかの有名な大職冠藤原鎌足公であります。この鎌足公の孫に、北…

津野興亡史④経高の謹慎

このような状態で、須崎の土民等が、有力な城主を得んとする心は、丁度干天に雨雲を望むに近いものがありました。人々は寄ると触ると、その話ばかりしている様な所に、その願いを聞いたかのように経高一行が現れた。 その様子を観察してみるに、どう見ても…

津野興亡史③続・千年前の土佐・須崎

そこで、時の鳥越城主某は、このままに捨ておいては、如何なる大事に至るかも知れないと考えて、軍勢を仕立てて、鎭定しようと努めたが、なにしろ彼等は無慚の兇徒で、そのうえ行動の敏速なこと比類なく、まさに出没自在の有様でありました。 南に居るかと…

津野興亡史②千年前の土佐・須崎

ここで、少し当時の須崎地方がどれ程暗黒な様子であったか詳しく話してみよう。 そもそも延喜時代を記した各種の書物を総合してみると、『醍醐天皇は、道真を貶すという失敗はあったものの、素は英明な主上でありましたから、御心を政治に注がれて、慈仁の御…

津野興亡史・第1章流星何処より来る

今からおよそ1千年の昔、世の中は泰平の瑞雲たなびくと賞された醍醐天皇の御代。延喜13年3月3日、都は春酣の桃の祝いに色めき立って、君恩のますますの深さに感じ入る。土佐の片田舎にさえ今日ばかりは、戸島も眠るが如く、入江の波も、千代の譜を讃えて、…

龍馬街道後記・戸次川古戦場

龍馬街道と名付けて佐賀関に上陸。その夜の宿を別府温泉にとるべく別府湾岸を走行中、確かこの辺りに我が津野一族最後の津野親忠の悲惨な最期を招いた原因となる戸次川古戦場があるはずと、川を渡るごとに川の名前を確かめた。 結局、新日鉄大分製鉄所が面…

長宗我部盛親と島津義弘③信親の悲劇-2

このとき島津軍は城の囲みを解いたが、それは慎重な戦術的後退に過ぎなかった。秀久の強行策は釣野伏せの策にまんまと嵌った。 家久は戸次庄の野原の中央に陣し左翼と右翼に遊撃部隊を配置して、四国勢が渡河を終えるのを待ち構えた。 渡河に難なく成功して…

長宗我部盛親と島津義弘③信親の悲劇-1

稀代の『梟雄』元親が人、変わりしたのは、秀吉の九州征伐(対島津家久)の際の戸次川合戦敗戦による。 それは元親をはじめ四国軍が、島津軍に釣り野伏せを仕掛けられ壊滅的な敗北を喰らった戦でした。 天正14年(1586)12月。 日本列島の中原をほ…

長宗我部盛親と島津義弘②元親の悲運

盛親の親は長宗我部元親。この一代の英雄の晩年、それまでとは人変わりしたような事態が続く。 元親には4人の男児あり。信親・親和・親忠・盛親の内、長男信親は信長より信の字を賜るなど元親期待の後継ぎでありました。 信長がまだ四国に関心を払う余裕な…

長宗我部盛親と島津義弘①その帰趨

戦国の武将に見る危機管理。即ち一国の命運を左右する切所に懸かった際の決断が結果を如何左右したか。 その典型と思われるのが、天下分け目の関ヶ原合戦に参じた土佐・長宗我部盛親と薩摩・島津義弘の身の処し方でありましょう。 両者とも石田三成の西軍に…

作家・工藤章興(くどうしょうこう)

世の中今や龍馬本が溢れていて、土居晴夫先生に言わせれば、昨日まで新撰組を書いていた連中が、皆して龍馬本を出している状態です。 ざっと立ち読みして面白い内容が書いてあればと思い手に取ってみるが、ほとんどが受け売り、孫引きの域をでない。これで…

新春 なにこれ風景

なにせ親族一同が集まる機会を捉えては津野なるものの謂れを説くのに忙しい。 今回も甥っこ連を捕まえては「津野の人」高僧、義堂・絶海の凄さを話して聞かせる。 新年会は従兄妹が一堂に会するのがホント久しぶりとあって盛り上がり、話は尽きない。 そん…

新年 家勢調査第1号

津野興亡史を現代語に訳する気持ちが高まってきたこともあって、では我々の現勢はどうかと自問。 祖父に始まるささやかな津野一族のその後を調査するためにも、まずは9人兄弟の5男である我が親父一家の家勢を調査報告することに。 親父夫婦は2男1女をもうけ…

年の初めの家勢調査・半世紀ぶり

これもある意味、津野興亡史の片隅にあっても良いのではないかと考えていたのが、津野の家勢調査。 その基になるのが、昭和38年。祖父母の結婚70年を記念して須崎の本家に親族一同が会した際、親父の清志さんがその場で作成した系図写真です。 襖に押しピン…

津野興亡史現代語訳の準備

このブログで重ねて津野親忠公の史実を書いておりますが、その根拠は深尾叶氏著の津野興亡氏に依ってている。出版が大正4年11月30日。その復刻本が平成3年11月須崎史談会から発行され、それを入手した。 この津野興亡史は確か高知新聞に現代訳され…

吉村作治教授との遭遇

昨晩、雲の上のホテル・温泉で同じ湯船に浸かった仲故か、三嶋神社の社内に前田稔副会長様が構えてくださった観覧席の真前、囃子方のすぐ後ろに、紛れもない吉村作治早大教授が座っておられるのを見かけ軽く会釈を送る。何ゆえの吉村教授かと、昨日のブログ…

津野町・吉村虎太郎

平成の大合併で高知県でも市町村が半分ぐらいにまとめられちゃった。そして由緒ある地名がどんどん忘れ去られていく。例えば黒潮町。太平洋の黒潮が岸を洗うイメージで命名したんだろうが、そんな名前は太平洋に面していさえすればいいのであって、土佐の海…

津野山神楽・我が遠祖の地

我が遠祖の地である高知県梼原町・津野町一帯を指す津野山郷に始祖・津野経高が延喜13年(913年)に入国した。伊予の国から三嶋神社を勧請して、守護神として祀られた時から代々の神官によって歌継ぎ、舞継がれてきたのが津野山神楽です。 一昨年大阪ド…

藤堂高虎と津野親忠①「下天を謀る」安部龍太郎

今や、我が先祖は土佐戦国七雄に数えられる「津野氏」であると思い込んでおります。それが心の拠所の一つとなっているかも知れません。実際はどうなのか、考えないわけでは無いのですが、親父の昔話に、曽祖父・久万蔵が、津野親忠公を祀る考山祭には、裃に…