山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

津野興亡史・第1章流星何処より来る

 今からおよそ1千年の昔、世の中は泰平の瑞雲たなびくと賞された醍醐天皇の御代。延喜13年3月3日、都は春酣の桃の祝いに色めき立って、君恩のますますの深さに感じ入る。土佐の片田舎にさえ今日ばかりは、戸島も眠るが如く、入江の波も、千代の譜を讃えて、人々老いも若きも、祝い酒のほろ酔い気分で、太陽の暮れゆくさまを惜しんでいる黄昏時。伊予の方から、10余人のこの地では見かけない姿をした人々を乗せて、ここ須崎の港に着いたあやしげな一艘の小舟がありました。
これを見つけた須崎の土民達はその見慣れぬ姿形に、驚いて叫び声をあげたり、汚く罵ったりとの大騒ぎ。
その噂はたちまち人から人へと伝わって、みるみるの内に海岸には人の山が出来、その誰もが疑惑の目を凝らして観察するが、その人々の言葉使いや、起居振舞いにも、なにやら自ずから気品があって、物盗り・海賊の輩とも見えない。
魯櫂以外の仕事の他には生きる術を知らない荒くれ漁師の眼にも、ただ人では無いように思われて、やっとのこと安堵の眉を開いた。
舟の人もまた喜んでいる様子で、たちまち両者に意志の疎通が出来、土民側の代表者が、10余人の中の首領らしい人の前に出て、腰をかがめ、大変丁寧に挨拶をし、早くも須崎地方の状況を説明し、鳥越城主となって、この地方を統治して欲しいと願い出た。
この首領と目された人こそ、藤原鎌足の末葉、山内蔵人経高主従の流離の姿でありました。
これに付き従う人々は、渡邊源蔵吉綱、宇津宮石見守景貞、那須源太郎宗則、板坂山城守高備(たかなり)、平井小源吾、和田河内守、下元豊後、市川佐渡守、高橋志摩介、乾但馬守の10名で、山内家の股肱の家臣たちでありました。