山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

福岡孝弟の不実

龍馬暗殺の事件当日。この時、なにか危うさを察知していたのが、近江屋の隣の酒屋に下宿していた土佐藩参政福岡孝弟であるまいか。
この日、午後三時頃、龍馬が福岡の下宿にやってきます。「今夜うちにこんか」と誘いに来たのです。「軍鶏鍋をやるき」とでも言ったんでしょう。しかし、福岡は居ないと言って留守番のおかよ(のち福岡の妻)が断りを入れます。
多分居留守を使ったんでしょう。
しばらくすると、また、また龍馬がやって来ます。余程来て欲しかったのでしょう。重要な相談事が有ったのか再度鍋を食いに来いと呼びに来たものか。
とにかく、この日、龍馬はいろんな人を自分の部屋に呼びたがっています。おかよにも「たぶん福岡は帰りが遅くなるだろうから、うちに来なさい」と誘っているほど。
その福岡は、龍馬が危ないという話を聞いていて、近江屋が襲撃されたら、近所にいる自分もとばっちりを受けかねないと考えたのでしょう。この前後、自宅には寄り付かず、料亭で寝泊まりしていたという事実が有ります。
その後ろめたさからか、なお危険を感じていたからか、福岡は龍馬の葬式にも参列しませんでした。
この事を同じ土佐藩田中光顕が死ぬまで詰り続けます。「どうにもわからん、あいつのことはどうにもわからん」と。
この事件を機に福岡は五か条の御誓文の原案を書いた以後、表舞台から遠ざかり、忘れられてゆきます。
彼は大正まで生き延びますが、それだけのことに終わりました。