山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

東照宮・家康ー家光の想い

駐車場から地下道を通って東照宮参道へと向かう。
日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)は、日本の関東地方北部、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。
正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。
東国の精神的中心としての歴史は徳川氏の東照宮よりも遥かに早く、遅くとも源義朝による日光山造営までさかのぼり得る。
さらに、源頼朝がその母方の熱田大宮司家の出身者を別当に据えて以来、鎌倉幕府関東公方後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。
徳川氏の東照宮造営はこの歴史を巧みに利用したと考えられる。【WIKIPEDIA引用】
元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康駿府(現在の静岡)で死去した。遺命によって遺骸はただちに駿河国久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)、下野国日光に改葬された
同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、4月17日(5月21日)に遷座祭が行われた。
なお、改葬の際、吉田神道山王神道のどちらで祀るかで論争となったが、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。
寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、今日見られる荘厳な社殿への大規模改築、すなわち寛永の大造替が、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて着手される。
総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、作事奉行は藤堂高虎、そして普請は、江戸はもとより京・大阪からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。
この年には江戸に来訪した朝鮮通信使対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。
正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。
家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。家康は遺言中に「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。
そして、八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」である。
家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのである。