山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

尾張徳川家14代慶勝公のこと

かねてより勤皇の志厚かった慶勝公は、王政復古の大号令ののち、新政府の議定となられた。そして翌正月、佐幕を任ずる御家来衆14人を斬首に処し、同腹の多くに家名断絶永蟄居等の重罰を科して、一挙に藩論を勤皇とした。
あろうことか御三家筆頭が寝返ったのである。・・・神戸新聞新連載・黒書院の六兵衛(浅田次郎作)引用。

かねがね尾張徳川家の幕末における振る舞いに疑問を持っていたが、この浅田次郎氏の記述を見てやっと理解ができそうだ。
天下第一の名古屋城が空襲により消滅し、その座を姫路城に譲らざるを得なかった事情は、この尾張徳川が担った運命のなせる業のように思えてならない。
徳川御三家筆頭であるにもかかわらず、尾張徳川家から将軍が出たためしがない。正当な尾張徳川家の血筋は、中興の祖として知られる九代宗睦(むねちか)公で絶えた。以来、歴代の御殿様は将軍家や御三卿から養子を迎えて家統を繋いできた。
幕府からの押し付け養子が4代も続けば、御三家筆頭の立場も殆いことから、尾張分家の高須松平家より迎えられた殿様が、14代慶勝公だ。
そんな事情から、慶勝公には最初から反幕府の気構えが見られて当然と言える。公はやがて幕閣と対立し、大老井伊掃部頭の強権によって隠居屹度慎を命じられた。彦根井伊家と尾張徳川家の間には、御譜代筆頭と御家門筆頭という確執もあった。
そんなことからの勤皇寝返りとなった訳だが、悲劇は、佐幕の筆頭たる会津侯も桑名侯も実家、高須徳川家の実弟で有ったことだ。
ここに兄弟相打つかの悲劇が繰り広げられることになる。