山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

駿府から静岡へ

江戸幕府が倒されて明治維新が起こると、1868年5月には、駿河国天領・沼津藩・田中藩・小島藩・交代寄合の榊原家の久能陣屋、諸旗本領、遠江国相良藩・横須賀藩・掛川藩・浜松藩交代寄合の近藤家の気賀陣屋、諸旗本領が合併されて、静岡藩(70万石)が設置され、徳川将軍家徳川慶喜が入った。同年6月、伊豆国(旧韮山代官領)の地域に韮山県が成立した。同年9月、旧堀江陣屋(5600石、申告1万6石。今の浜松市舘山寺地区)が堀江藩に昇格した。そして、1869年には、駿府は静岡に改名された。
1871年8月29日の廃藩置県では、静岡藩静岡県に置き換わり、堀江藩が堀江県に置き換わった。同年12月31日には、当時の静岡県は分割され、駿河国部分が静岡県となり、遠江国部分は浜松県となった。
堀江県は浜松県に編入された。韮山県は、荻野山中県や小田原県と合併して、足柄県となった。
しかし、1876年(明治9年)4月18日には足柄県が分割され、相模国部分は神奈川県に編入され、伊豆国部分は静岡県編入された。そして、同年8月21日になると、浜松県が廃止されて静岡県編入された。
1878年明治11年)には、伊豆諸島が東京府(現在の東京都)に編入された。
このように、伊豆国駿河国遠江国の3国が、1876年(明治9年)に行われた県の合併によって、現在の静岡県となった。』

勿論慶喜はこの地で蟄居謹慎の日々を送るわけだが、家康以来の駿府の地名を、謹慎になぞらえて静岡と変えてまで、恭順の意を現した。
何もそこまでと考えるが、この姿勢は明治33年の明治天皇拝謁を許されるまで続いてゆく。
朝敵の汚名を晴らすまでの永年、これはこれで常人には窺い知れない決意と意地が見えてくる。