山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

円谷と君原

日経新聞の名物コラム・私の履歴書君原健二を読んで、2人のオリンピックメダリストの生き様の違いに考えさせられた。
東京五輪のゴールを目前にして、ベイジル・ヒートリー(英国)に逆転を許し、円谷のマラソンのメダルの色が銀から銅へと変わった。
このことで、円谷は国民の前でぶざまな姿をさらしてしまったと恥じた。自衛隊員として国威高揚の至上命令の中の重圧も有った中でだ。
メキシコ五輪では日の丸を揚げる、それが国民に対する約束だから」と広島大会での控室で君原は円谷の決意を繰り返し聞いたという。
その時、円谷にそこまで自分を追い詰める必要はないと言ってやれなかったことが悔やまれると君原は書く。
その後、メキシコ五輪が刻々と迫る中、円谷の故障が長引き、まともに走ることが出来なくなる。椎間板ヘル二アの手術に踏み切ったが、回復はしなかった。そして一九六八年一月九日円谷は剃刀を首にあて、命を絶った。
遺書の文言は痛ましいかぎり。「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまい走れません。何卒お許しください。」上司あてには「お約束守れず相済みません。」とあった。
この知らせを聞いたとき、はじめて苦しんでいる円谷の心中を察してやることが出来なかった、自分が円谷を救えたかもしれない人間の一人だったことに気が付く。胸にせり上がってきたのは「悔しい」という思いだったそうだ。
一方、君原は東京五輪では8位と低迷しながらも、メキシコ5輪では2位銀メダルに輝いた。しかも、なんとレースの途中で便意を催し、うんちに追われてのゴールだった。
東京5輪以後、君原は妻帯者となり、八幡製鉄勤め。円谷は結婚目前まで行っていながら、自衛隊の上司に「競技に差し障りが有る)と反対され、破談になった。結婚を進めていた畠野コーチも北海道に異動となり、相談役を失った。
心の平静を得た君原と、悩みを打ち明ける相手のいなかった円谷。ぎりぎりまで自分を追い込むゆえに、競技者は人の支え無しでは生きて行けない