山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

重なる二つのステージ 呉・松井両マエストロ

明石タコフイル第12回定期演奏会での呉・松井共演の熱気さめやらぬ今、思い出すのは松井先生率いる伊川谷北高校音楽部の定期演奏会に呉マエストロが出演されたステージを綴った(つのしんの独り言2008.6.7)のブログ。
とくに、今回は写真・動画禁止でUPする画像が無い中、アーカイブを引っ張り出して、諸々を思いめぐらそう。

『弟・啓三から電話「6日に神戸文化ホール(大ホール)で県立伊川谷北高校吹奏学部の定演が有るがいかないか」とのお誘いだ。
JAZZ畑の弟が吹奏楽のコンサートへ行こうとは珍しいこと、何かあるなと言葉を待つ。「呉信一君が客演だそうだ。」 その一言で心動かされる。
呉信一京都市立芸術大学教授は今や日本で3本指に数えられるトロンボーンの大御所。
ハイブリッドプレーヤーであり、明石高校音楽部の後輩でもある呉君(高19回)と松井君(高20回)の組み合わせを聴き逃すわけにはいかない思いがあります。

今をさること50年前、明石高校に入学と同時に音楽部に入部して最初に教えを受けた行進曲の練習が呉幸五郎先輩指揮による「ナショナルエンブレム」と「グラジュエイター(剣闘士)」。本職の有永正人先生よりこのときの印象がまことに鮮やかに残っている。呉先輩はなぜかその頃、仕事の合間とゆうよりも、音楽部の練習を最優先されているのではと思えるほど、頻繁に現れてはご指導を賜った。
呉という名から計り知れるように、かの有名な呉錦堂の御子息であられた先輩には、さまざまな富豪伝説が伝えられており、また関西のクラッシック音楽界に知己多く、とくにマエストロ朝比奈隆氏との交流は友情以上のものが有ったという。その富豪伝説の一つが、一人だけ木管クラリネットクランポン製伝説です。もともと戦前の旧制中学の音楽部否むしろラッパ隊は、勇壮な行進曲・ファンファーレ演奏をその目的としていて、金管ばかりの編成が主流でありましたが、ちょうど呉先輩が入学された中13回(昭和15年卒)のころから木管も加えての編成となりだしたようで、そんな中、クラリネットといっても、金管製の代物しか手に入らなかった時代に、呉先輩だけは、クランポンセルマー製のバリバリ舶来クラリネットを吹いておられたとか。後に我が音楽部が全日本吹奏楽コンクールで5回もの優勝を飾ることが出来た原動力の一つに、呉先輩のこのルートが大いに生かされて、音楽情報はもちろん、朝比奈マエストロを招いてその教えを乞うことが出来たことことがあげられると今思い出しています。
その呉先輩から、息子の信一が明石高校に入学して音楽部に入るといってんだけど楽器はトロンボーンをやりたいらしい、宜しくと声を掛けられた。これが呉教授との最初の出会いといえる。年齢は7歳下でTBは初心者との話だつた。呉教授の天分を悟ったのが、この翌年の明石公園で行われた納涼コンサートに同じパートで演奏した際だった。僅か1年半でとんでもない音を出し、なおかつスライドワーク抜群で、音のつなぎも非常に滑らか。12・3年は吹いていて少々自信もあった私の目を剥かせる雰囲気を感じたものです。このただ事ならぬ才能は、父君のかいがいしいご指導もあって、その後大阪音楽大学に進まれ、卒業後大阪フイルハーモニー交響楽団に入団とあとは皆様ご周知の活躍を遂げられて、我々TB吹きの頂点に君臨される存在であります。
その彼が、松井隆司指揮の伊川谷北高校吹奏楽団にゲスト出演されるという。・・これを聴き逃す手はない。