山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

t東北の三大櫻を訪ねて⑭りんごと台風

芦野公園から弘前城にいたる道筋、両側に拡がるりんご園の見事さには目を奪われる。りんごも最近は品種改良と冷蔵設備が行き渡り、年中美味しくいただけるようになった。そういえばりんご園とともに、JAらしき大型の冷蔵倉庫もよく見かけた。日にも在来のりんごがありましたが、ほとんど食られないりんごであります。特に青森の西洋りんごの始まりは、明治8年(1875年)米国人宣教師ジョン・イング師が、教え子や信者などに分与した「りんご」が西洋りんごとして青森県に紹介されたことです。
青森りんごの開祖と称される菊池楯衛が明治10年、農業研究団体「化育社」を結成し産業としてのりんご作りを根付かせたとか。平成17年で苗木が移植されて130年。国内およそ100万トンの半分を生産、生産額は1千億円規模をほこるまでになっています。その間の苦労たるや、われわれの想像を絶する人々の血と汗と涙の物語があったことでしょう。特に、平成3年(1991年)観測史上最高の瞬間最大風速53メートルを記録した台風19号により、県内全域に被害額1741億と言われる大きな被害を蒙った。この19号台風には私も散々な目に遭わされている。明石駅前、今では懐かしくさえ聞こえる「ダイエー明石店東館」屋上で昭和50年(1975年)以来夏季営業しているビアガーデン用の仮説ステージが根こそぎ吹き飛ばされたのはたしか9月27日か28日。同じビルの地階で居酒屋ブラジル営業中、一階隣の酒道場のおばちゃん店員が、お店の2階屋根に、なにやら大きなものが落ちてきたような音がしたが、もしかして屋上ビアガーデンの備品でも落ちてきたのではないのかとの通報。ビアガーデンはその年の営業は終わり、しっかり後片付け、養生はしてあるはず、何が落ちるものがあろうかと、半信半疑で屋上に上がってみると、屋上中央に設えてあった仮説ステージの姿が無い。広さにして3メートル×9メートル高さ80センチの舞台が陰も形も無い。人が15人乗って歌いまくっても大丈夫な頑丈な作りだったのに。・・吹き付ける強風に、屋上に出る塔屋のガラス戸を開けることもママならず見渡してみると、屋上の庭園灯のポールが頑丈なコンクリート造の柵の上方に弓のように曲がって、何かがそれをカタパルトにして、上空に飛び出したかのよう。おまけに、その横のダイエーの広告塔の側面がベッコリ凹んでいるのがみてとれた。この状況を見て初めてことの重大さに気が付いた。舞台が宙を舞って、山陽電車明石駅の駅舎・線路上に落下しているに違いない。まさに事態は絶体絶命であります。しかし、ここで我が人生のうちのベスト3に数えられる「不幸中の幸い」がまっておりました。幸いなるかな、その年の4月7日山陽電車明石駅は高架が完成し、JR明石駅に隣接並行する位置まで北に移転しており、旧の駅舎・線路もやっと撤去されて、舞台が舞い落ちたところは、ただの広場となったところでした。これが、実際運行中の駅・線路上となればそのための事故が発生し、業務上過失・莫大な損害賠償などが発生。いまの私は確実に無いことになっていた。そのころ店にいた中国人留学生のケツを叩いて大急ぎでの跡片付け。私はなお吹き盛る強風のなか、一部引っかかってバタバタはためいている舞台の残りにロープを懸けて、それを身体に巻きつけ必死に引っ張る。しかし地上9階の吹きさらし、体は凧になったかのように振り回される。ほんと生きた心地がしなかったとはこのことだ。格闘3時間余、綱引きに強くなったのはこの時の経験故か。いま思い出すだに身震いする、悪夢の一夜。その台風が青森にも空前の被害をもたらしていたなんて。・・・俺はまだ幸せ者だったんだ。