山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

サッカー命の日々⑭木下健終身名誉会長

img265b.jpg手元に資料として有るのは、淡水サッカー創立35周年号(昭和40年・1965年)・1部復帰祈念特別号(昭和48年・1973年)・田中博先生追悼記念特集号(昭和51年・1976年3月)・創部50年記念特集号(昭和55年・1980年)の4冊子であります。このブログを始めたばかりに、7月12日のOB総会に出席する際、確かめたい事が沢山できました。その最新の50年記念特集号を見ますと、この当時、会長は高商16回三浦和夫氏でご挨拶が冒頭をかざっています。そして部の状態は、この記念号を刊行した頃。正確には昭和44年執念の2部復帰から昭和53年まで9年間にわたる2部暮らしで、昭和54年に3部に落ちた直後、まだ2部のPLAYを忘れないうちに2部復帰しようと躍起になっていた頃から、その甲斐も無く、長い3部暮らしが始まっています。そのどん底の時代の会長を引き受けられたのが学部4回木下健氏・通称ケンタンであります。ケンタンは私が入部した頃にはもう、再々グランドに現れてご指導いただいていましたが、神戸・三宮の三富商店御曹司とあって、現役はもちろんのこと、OB会のお世話も、色々とされ、実質会長の役割を果たしておられたものです。その当時、通例6月の総会が近づいてきますと、ケンタンから「また総会でっせ」と電話が入る。三宮駅前・新聞会館8階の金龍閣(ダイエー中内功氏弟の中内力・シンエイフーズ社長経営)での総会には4回生主将他を招いてOB10-20名が参集して執り行われる。私は必ず参加してご挨拶・スピーチをさせられるのが恒例の10余年を過しておりました。その様子が変わったのが、平成4年の総会前。突然次期会長をお前頼むとのお話がありました。この会長役は代々自営又は経営者の方が引き受けておられて、会社勤めのOBは、なにかと時間の都合がつかないことから、そんな具合になってしまったもんでしょう。勿論財力も無くては勤まりません。そして、当の私は自分のバブルでふらふらながら、なんとか商売の間口を狭めて一息ついたところでとてもそんな余裕をかましてはおれません。しかし、ケンタンが会長を変わりたいと仰るのは、余程のことで、その心中たるや、監督時代から通算40年もお世話されて、ほとほとお疲れになったのか、10年を越してもう誰かと交代しなければとお考えになったのか。私にとって絶対的存在であるケンタンから、ある意味命じられれば無碍な返事も出来るわけが無い。そこで、ケンタンを名誉会長に据え、私は会長といっても、ライオンズでチョットは勉強した幹事役にまわることくらいなら出来そうだと腹を決め引き受ける決意をいたしました。迎える平成5年6月の総会は当時1000万の基金を積み立てようという学部5回酒井保先輩からの提案を決議して平穏に終了しましたが、現役を呼びつけて怒ってみたところで芸がないことが気にかかりました。なにか工夫は無いかと思案するうちに、いっそ現役生全員を参加させ、新入生の紹介も十分させて、ささやかながら栄養がつくものでも食べさせるような総会はどうだろうかと吉田・濱口等回生の近いOBに相談し、平成6年の総会からは、本学にてOB戦をやり、そのご現役全員参加で商大生協ホールでの総会・懇親会を開催することに決定。なおその総会で木下先輩を終身名誉会長とする動議を提案満場一致で賛成を頂きました。