山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

適寿リハビリテーション病院20周年パーテイ・大政奉還を望む

6月28日(土)新神戸クラウンホテルにて「おかげさまで20年」と題して医療法人社団康人会・適寿リハビリテーション病院の20周年記念講演会と懇親会が開催されました。12席18テーブル約220人を数える大PARTYでした。われわれ夫婦も招かれて、土陽会の小島専務理事と島本事務長ともども出席いたしました。戦前より高知県人の集いの場としてあった同志会的な会を、昭和25年公文病院先代の公文適先生が確立された神戸高知県人土陽会。適先生ご逝去のあと、昭和60年の55周年総会からは、ご子息公文康先生が2代目会長をお引き受けになつた経緯は前にも述べたところです。適先生なきあと、県人会は勿論のこと、長田の名門公文病院もご兄弟で引き継がれる中、次男である、康先生は、昭和63年適先生の広壮なお屋敷のあった丸山に、ご両親〈適先生・ご母堂久寿雄さま)と話し合っていた理想の病院・花にうもれた癒しの病院を期して、ご両親のお名前を冠した適寿REHA病院を開院されました。本来康先生は、アレルギー・小児喘息の権威で、小児科専門医と聞いておりましたから、この当時まだ聞きなれなかったリハビリテーションを目的とした病院の設立に不思議な感じを抱いたものです。先生が適寿病院の経営に専念されるようになりますと、土陽会の事務局も適寿病院に移り、一時は専任の中尾事務長を自前でおかれるなど、会の運営全般をご指導していただきました。
その間、平成7年阪神淡路大震災を大奮闘でのりきられた平成12年5月21日の70周年記念総会で、会長を須藤淳元神戸外国語大学学長に譲られ、名誉会長となられました。この一連の推移を土陽会サイドからのみ見ていた私には、なにも会長を代わられる必要は無いんじゃないかと内心おもっておりました。しかし、本日この20年の適寿病院の沿革と取り組みの講演を拝聴し、先生のご挨拶を伺ううちに、開院当初、診療報酬の対象とならない、REHABIRI治療を、無報酬で7年間も続けられたことや、REHABIRIそのものが、ほかの診療科目のようにDOCTOR1人に頼ってできるものではなく、理学療養士を中心に、病院スタッフ全員が一団のチームとなって取り組まねば到底できるものでなないこと。それには、さまざまな現場研修と、海外からの先進知識の取り入れ等、若いスタッフの士気と連帯を高めてゆく作業の継続がかかせないことを知り、その実行に邁進された20年であったことを知りました。そんな凄まじい精進の中で、よくも土陽会のお世話まで頂いたことかと、理解のなかって身の不明を恥じたことです。会は先生のご長男。敦専務理事のご挨拶でお開きとなりましたが、医師であり、厚生省の技官として海外へ派遣されていたご子息の立派なご挨拶を聞くにつけ、この記念会は、適先生の20年の大成果の仕上げで、専務理事へのバトンタッチの宣言にさえ聞こえてきたわけです。そうであるなら、ここは一番、土陽会の大政を奉還して、再度先生のご指導を受けられないものかと、次の考えに及ぶ私めに御座います。あと2年で80周年となりますからー。