山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

サッカー命の日々⑯名監督は名会長なり・吉田進

自営業の宿命は、景気の変動に左右されることでしょう。満5年間自分なりの原理原則を守って淡水サッカー会長を辛うじて務め、現行の総会形式も定着して来た頃。ちょうど平成7年の阪神大震災の復興景気も一段落をむかえると、明石駅前での我が生業も陰りを見せ始めてくる。同時に手がけていた不動産仲介業は順調に実績を伸ばし、本業の赤字を十分補う程になってくる。股裂きのような日々の仕事を抱えて時間がいくらあっても足りない状況。さすれば、そろそろ会長機能を次なる人物にバトンタッチしなければと決意して、平成9年6月の総会に臨んだ。次期会長を託す人物選定には何の迷いも無くG17回の吉田進氏を指名して、快くご本人の了承を頂いた。私が会長職を拝したときから、次は吉田と決めていたのには訳があります。話は40年前、昭和40年秋季リーグを5位でやっとのこと乗り切り、次期主将の指名決定に迫られたとき、彼を主将にしようかと相当迷ったことがあります。その際、彼なら、副将であってもチームへの貢献に全力を注いでくれると熟考結論して、副将指名をした経緯がありました。好漢・吉田は我々商経学部の文系人間とは違い、商大に管理学科が新設された際の、第1期生でたぶん京大くずれ。初代管理学科・小笠原教授(後に兵庫県副知事・芦屋大学学長)の秘蔵っ子のバリバリ理系人間です。何事にも前向きで、頼りがいがあり、疲れというものを知らない、誠実一路の人柄です。そして責任感を重んじることこの上ない人物です。というのも、私と長本が抜けた、翌年の秋季リーグで、運悪く3部落ちの悲劇に見舞われてしまう。本当に運悪くとしか言いようの無い結果でしたが、このことを誰よりも深刻に受け止めたのが、誰あろう吉田進氏でした。幸い立石電機・OMRON-京都に就職した地の利に恵まれた彼は、卒業後早速現役監督としてグランドに現れ、卒業3年後の昭和44年(水野主将)には見事2部復帰に導き、責任を果たされました。この時代、44年ー52年の間は、1部復帰祈念特別号の会誌を出したほどの盛り上がりを見せた、戦後第2黄金時代といって良いでしょう。その12年あまりの間、黙々と監督を務めていた彼以外にバトンを託す人物がいるはずがない。・・・この選択こそが、私の淡水サッカーに齎した最大の功績となろうとは、この時はまだ気づいてはおりませんでした。