山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

鈴木照雄先生ご逝去を知る④

先生は昭和24.11.30から昭和43.3.31まで教鞭をとられた。戦後学校制度が再編成される激動の時代、新制大学としての神戸商科大学に赴任されたわけだ。担当講義はドイツ語と教養・倫理学でありましたが、今思えば、そのどれもが先生には苦痛そのものであったろうと思われる。専攻のギリシャ哲学(プラトンアリストテレス)を学ぶための古典ギリシャ語と古典ラテン語、中世哲学をまなぶための中世ラテン語を駆使される先生にとって研究のための片手間仕事とはいえ、馬鹿なわれわれを教えることでどれ程貴重な時間を費やしたことかと、いまさらながら反省。先生には研究のみに没頭されるのが一番似合っている。先生はその後、大学を換わられることはあっても、研鑽を積まれ、エレア派、ヘラクレイトスプラトンマルクス・アウレリウスギリシャ抒情詩を論じ続けられ、2006年にはマルクス・アウレリウス『自省録』の新訳を世にだされた。齢87歳の時にであります。大正7年のお生まれと聞いておりましたから享年89・90歳。よくぞ頑張られた。
卒業してのちの先生との御縁は、昭和42年(1967年)10月、私の結婚式に来賓としてお招きし、スピーチを賜ったのが最後となりました。神谷先生(中学)住田先生(高校)栗田教授(商大ゼミ仲人)田中博神戸商大名誉教授(サッカー部顧問)からのスピーチは、がさつで元気だけが取り柄とのお言葉を頂いたが、鈴木先生からは「かれはなかなかのロマンチストで文学的教養も身につけている」との言葉をいただき、実のところこれが一番嬉しくて、自分の本性を見抜かれたここちがしたものです。
先生への想いは潜在的に、通奏低音のように絶えることなく、仰ぎ見る知性のシンボルでありました。
気持ちの上では連絡を取りたいのはやまやまなれど、きっとお邪魔することになると考えると、どうしても一歩が踏み出せず、40年を過ごしてしまいました。普通なら、年齢的にどうにかなって不思議でない今、去年の早い時期に、しきりに先生にお会いしておかなければとの思いが込み上げて、消息を調べるべく検索したところが、東海出版の近況報告というHPに鈴木照雄と名前のみが掲載されているのを発見。あつかましく先生との関係を書き込んで、住所・電話を教えろと、強引なメールを送りました。それが9月20日になって担当者から、茅野市の住所と電話番号を知らせるメールを受け取りました。ある意味やっと消息がわかり、御存命がわかったことで一安心をしたのが仇となった。長男が神奈川市に新居を構えたお祝いに行く道中。中央道・諏訪湖経由で先生に会いに行こうと計画をたてていた。しかし、当初4月10日ころの予定が、長男の家のかたずけが遅れ、来てもいいよと声がかかったのが、この18日。総領孫の誕生祝い・新築祝い・小学一年の運動会と盛りだくさんな計画で、途中29日に茅野市と考え、念のためもう一度検索したところ入江幸男教授のブログ「哲学の森」で、5月9日ご逝去と知った。先生にもう一度試験の点を直していただくこともかなわぬことに。まことに出来の悪い教え子でありました。こころよりお詫び申し上げます。
ご冥福をお祈りします・・・合掌