山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

『さんよう喫茶』⑬駅前生活からの脱出

親父の口癖であった「駅前で30年店を張っている」は実際は、36年間続き、私が共に商売したのは、その後半の15年間。しかし、小学生の頃から、店が忙しい時には自然とレジに立ち、つり銭を渡すことを覚える。この時分、実際一家団欒などと言っている暇はなく、馬場写真館の奥の8畳間をネグラとして、両親は店に懸かりっきり。朝起きると、国道の向えの一膳飯屋・魚秀へ行って小飯味噌汁を買ってきて朝飯にする。夜は兄弟揃って、駅前十字路の角の銭湯・大師湯にでかけて帰りに白川で果物を買って、夜のおやつがわりにして、眠りに就く。部屋には勉強机やスタンドがある訳でもなく、砂糖の空き箱を机がわりに宿題をこなすといった日々。

休みの日は親に付き合ってさんざん夜更かしをする。親父がパチンコに行けばついて行って落ちている玉を拾い集める。ある時は、拾った玉を打ってみると、ジャンジャンバリバリ大当たり。といってもその頃はALL15とかALL20の世界でしたが、子供ごころに嬉しくて、親父を呼びに往くと、早速やって来て「俺が打ってやる」と席を取って変わる。途端に玉の出が悪くなり、バツの悪そうな顔をして引き揚げる。てなことで、その時分の心配は大きくなるまでパチンコが続いて有るだろうかとのヤキモキ。とても附属へ通うボンボンのすることじゃない。このハチャメチャのピークが今思えば4年生の階段墜落事件と符合する。まさに限界状態だったんだ。

お店を始めると同時ぐらいに妹・郁子が誕生している。母は産後の養生もそこそこに、東仲ノ町の明石酒販組合の倉庫番をしていた祖父源市・祖母しげに郁子をあずけっぱなしとなる。だから妹が歩き出したのも知らないようなこと。その上、映画館からは、お店を西側に移転してくれとの申し入れが来た。何もかもが重なって、特に子供達の養育上、これじゃあ駄目だと親父も思い切ったんだろう、申し込んでいた住宅金融公庫の抽選が当たったことから、材木町に家を新築の段取りとなりました。新居には、郁子を預けている母親の両親・源市・しげと末妹の八重美も加わって、初めて家庭らしい体制が整うこととなりました。僕の成績が目に見えて良くなったのは、墜落事件で頭を酷く打ちつけたからとばかりに思っていましたが、よくよく考えると、このタイミングーが効果を現したということだ。だが、そうなると、今までのように店に入り浸っている生活とは決別することに。山陽横丁のクラブ新宿の吉田夫婦の愛娘・可憐ななかちゃんともとんかつ弁慶の同級生でもある喜世江ちゃんとも遊べない。