山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

想いは繋がって

その清水先生が育友会費の使い込みが発覚して大事件になったのを聴いたのは、同じ敷地内に隣接する附属明石中学へ進学して間もなくのことでありました。こんなことを書くと怒られるが、附属小の同級生を見ても、ほとんど兄弟・姉妹が入学している。事実わが3人弟妹も入学した。どうやら、弟・妹はすんなり入学したが、私は実は幼稚園を受験して滑っている。何かの関門があると必ず滑るクセはこのころからのこと。やっと入学を果たしておふくろにご褒美の饅頭を貰ったのがむしょうに嬉しかった。
ある意味先生と育友会・父兄との癒着があったんでしょう。戦後10年経って、シミキンは県下で一番若い教頭先生に出世しておられた。コアカリキュラムの研究に明け暮れて、お酒がすきなのが災いして、研究会の後は若手・古手をひきつれて福原へ繰りこんでいたとか、いやそこまで贅沢はしていなかったとか。父兄のお母さんともややこしくなったりして、今で言う内部告発にやられたんだ。
そりゃ明石の教育界どころか、関係者一同が警察に引っ張られて、かなりやられたらしい。当局もまだ戦前の名残があってかなり徹底しての取り調べだったとか。口を割る者、黙秘する者。しかし所詮世間知らずの先生方。全部白状しちゃって、結局シミキンが一人罪を被って幕引きとなった。
それを聴いたわれわれ教え子には本当にショックな出来事でありました。なんといっても、一番お世話になった先生でありながら、この事件のため、その後一切接触することがありませんでした。
それが昭和45年ころ、明石駅前に「てんぷらマルイチ」を開店して間もなくのこと、無性に先生に会いたくなって、藤江というところに住まいされていると聞きこんで御尋ねした。先生は教員を退職後、教科書会社に就職されておられたとか。やっと訪ねあてたところ、あれは七夕のころでしたが、一年前の七夕のころ亡くなられたとの御話し。同居のご婦人から、よくあなたのことを話していましたよと聞かされてやっと自分が先生孝行の一つもしていなかったことに気がついて、いまさらながらに悔やまれました。せめてもの形見にと無理をいってもらってきた写真が前回UPしている肖像写真であります。            
                                清水先生ありがとうございました。