山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

附属明石中学校時代①ブラバン暮らし

明石商工会館大ホールにて
             (明石商工会館・明石デパート5階ホールにて)
何の迷いも無く附属中学へ進学。けれど、何人かの同級生は親がそんな体制の学風を嫌って、公立中学校へと替わっていった。そんな事情もずっと後になって知ったことで、サッカー大好きの映画少年はまだ純情そのもの。そろそろ男子の第一期性徴が現れてくる頃なのに、そっちのほうは少々遅れているようす。親父から「男は剥いて何ぼじゃ」などと乱暴なことを言われて、そのように勤めてもなかなか上手くはいきません。
肝心のサッカー部は中学には無かった。戦後ベースボール全盛の始まりの頃、やはり人気は野球部で、附属中学野球部にも「イボころり」の息子・横山某が豪腕投手としてならしていました。
仕方なく過している時、アッサンにブラバンに入ろうと誘われたのは、前に述べたとおり。授業が終わると部室に駆けつけ、まさにブカブカ・ドンドン、チンドンヤとかわらない。というのも、顧問の神谷先生・カミちゃんは声楽専攻で、管楽器については詳しくありません。 それでも、部員の音楽力を高めるため
個人レッスンでコールユーブンゲンの指導をしてくださった。とくに譜面を読むことよりも、聞いた音を正確になぞっていくことのほうが面白くて、またそのことが、ラッパの上達にかなり役立つたようです。
といっても、全員で合奏できるのは、その当時ブラバンの定番曲であった、「錨を上げて」・「士官候補生」等せいぜい10曲ほどのレパートリーしかありませんでした。そんな状態なのにずうずうしく、明石デパートのホールでの演奏会に出てたんだ。たしかに首を傾げて吹いている。
クラのアッサン(浅田敬三郎)と指揮者の間に写っているのが、マッチャンこと松本正幸君。彼もブラバンにいたんだ。彼の口癖は、「俺は産婦人科の医者になるんだ。」だった。だから3年間ブラバンにいたかどうか分からないが、頑張って吹いている様子だ。その後神戸高校に進学し、阪大の外科医となった。尊敬しちゃう同級生の1人です。