山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

附属明石中学校時代②縄縛からの開放

39dfb873.JPG小学校時代の、存在感のあるシミキン先生に較べれば、中学校で出会った先生方の如何に、個性に満ち溢れ、朗らかで、愛すべき面々であったことか。まず担任となった神谷好先生は、いくら見上げても顎がない。
いつも微笑んでおられて、ホームルームには童話を朗読してくださった。先生の背広のポっケは、普通は左だが、何故か右についていた。どうしてかと質問すると、恥ずかしそうに、奥さんが古くなった背広を裏返して仕立て直してくれたと仰る。ああ愛妻家なのか恐妻家なのかと思っているうちに、さっさと離婚して、音楽室の隣にあった図書室の書記をしていた、ほんとうに綺麗で、可愛いい娘さんと再婚しちゃった。人は見かけによりません。最大の驚きは、英語の授業で、モノホンのネーテイブスピーカー・ミスモアーがあらわれたこと。いきなりアメリカの小学校の教科書そのものを使っての英語での英語授業。おもにスピーチを中心に英語は英語で考える癖をつけなさいという方針。これはスピーチ・ヒヤリングの力を付けたものの、高校受験のための日本式受験英語は殆ど手付かずになっちゃった。3年になって、模擬試験に出てくる英文法問題がサッパリ出来ない。これはどうやら僕ぐらいで、皆は別勉でチャッカリカバーしていたらしい。同じく英語教師・樋口豊次先生は聞くところによると、ご飯にバターをしこたま塗って、VERYGOODを連発してるとか。福本俊雄先生は名前より先に「ホエンさん」と渾名を覚えた。すみません。 藤田清子先生は古文の権威で、まるで学者の話を聞いているような授業を展開された。文学の面白さを教えてくださった。
圧巻は、なんといっても数学の喜多山一英先生。先生は附属中に奉職されて27年。現職で亡くなるという悲運の先生でしたが、教え子たちに遺したものは、偉大なものでした。
早くから、強度のリューマチを患われ、先生の傍によると、何時もサロンパスの匂いがしたものです。
酷いときは、腕が思うように曲がらなくなる。そんな不自由な手で、黒板にコンパスで図形を何とか描こうとされす姿には、鬼気迫るものがありました。授業はそれこそ懇切丁寧過ぎるほど。生徒各人に数学ノートを提出させ、その全部に目を通して、朱筆を入れられる。私は特に先生の教える幾何が好きになりました。