山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

昭和39年・第12回全日本吹奏楽コンクール優勝

何とか関門の虎口を脱して辿りついた3年生。経営学科・栗田ゼミ。ドイツ語の後遺症で独語2年は履修してなんとか3年生のうちに取得しておかないとまた大変なことになる。とりあえずは出席だけはするようになりました。鈴木先生も心得たもので、またまた竹馬を履かせるわけにはいかないとばかりに、心安らかに出席させようと、読解の順番が私に回ってきても、透明人間がいるかのように、パスして下さる。なんでお前だけと聞かれた事はなかったが、誠に珍妙なお助けを頂いた。
サッカーはといえば、3年生という気楽な位置で戦うというより楽しんでいた部分が多かった。実際は3年生が一番チームの主体となって走らねばならないところ。4年生のバラエティに富んだメンバーに頼りっぱなしで申し訳ないことをしたものです。・・この年新人は5名で経験者2名。我ら3年生は私と長本省三の2名という淋しさ。次は自分が責任を背負う覚悟だけは出来ていたのかな。
そんな学園生活の合間に神戸大附属明石中のブラバンを無理やりコンクールに出場させたり(2008.6.7項)商大マンドリン定期演奏会にエキストラでギャラをもらって出演したり、我が商大応援団吹奏部の立ち上げに手を貸して、ついでに商大祭での演奏披露にまでこぎつけたり(2008.7.5項)と楽しいことばかり。・・やがて来る苦しみの1年の執行猶予期間でありました。
このころが、私のクラッシック・トロンボーンとしての絶頂期ではなかったか。強烈なプレス奏法は相変わらず、常にベルを下に向けて、音の響きを意識して、体全体を共鳴させる。絶対的ファーストの自信をもって舞台にあがったものでした。弟・啓三がサードで十分にハーモニーを支えてくれる。セカンドの内山一彦はいかなる場合も我々に吹き勝ことはない。最高のバランスを誇るトロンボーンパートでありました。
事実、全日本よりも難関であった関西大会でこの年勝ちぬけた理由のひとつは、我がトロンボーンの鳴りの良さであったに違いない。マエストロ朝比奈隆氏から、明石のボーンはプロ並みだとの有難いお言葉を頂いた。
結果、昭和39年(1964年)11月8日高松市市民会館での第12回全日本吹奏楽コンクール一般の部優勝。
これで3年連続・通算4回目の全国優勝を果たしました。
        
組曲「シルビア」より バッカスの行列                                                      ドリーブ作曲     指揮 青山正img385A.JPG