山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

OB吹奏楽団1年間お休み・サッカー命の日々始まる

昭和39年の秋、OB吹奏楽団は高松大会で3年連続優勝をとげる。一方サッカーは関西学生リーグ2部で一挙に優勝を狙うものの果たせず、4か5位におわったのではなかったか。その頃の関西学生リーグは1・2・3・4部ABとあり、各部は6校編成で、2部の4位とあらば、関西でTOP10に入る位置にいたわけだ。好漢松本靖弘主将からキャプテンシーを受け継いだ私の頭の中は、2部死守の一言でありました。早速OFFSEASONもあらばこそ、走力強化の走りこみと、サーキットトレイニングを取り入れた練習を開始した。(これ以降の悪戦苦闘は2008.6.14項から始まるサッカー命の日々・淡水サッカークラブの23項に記した。)
それまでの省エネぶりから想像を絶する変わりようは、さぞや3回生以下を驚かしたことだったでしょう。しかし、我が代で、3部落ちするわけにはいかない。過去に部落ちを経験した歴代主将は落ちを恥じて淡水サッカークラブへ顔を出さないとの話も聞こえてくる。もはや、ラッパを吹いているどころの騒ぎではなくなった。
そのころ、OB}吹奏楽団は3年連続優勝の翌年、招待演奏に招かれ、昭和40年(1965年)11月14日遥か長崎の地で、松尾泰三指揮のもと、「象とハエ」(クリング)「雷鳴と稲妻」(シュトラウス)「組曲第2から」(ホルスト)を披露して、その存在を全国に誇示した。この11月14日といえば、私はサッカーリーグ戦の最中で、第4戦対神戸大を戦っていたころだ。その時点で1分け3敗。第5戦の大阪府大に勝たなければ、3部との恐怖の入れ替え戦が待っている。とてもOBの成績を気にするどころではなかった。
この年、指揮者が松尾泰三に変わった事情はよく分からないが、永年明石高校音楽部を指導されてきた有永正人先生が定年を迎えられ、八代高校へと転出されたことが主な原因ではないかな。
招待演奏は名誉なことですが、これがために有る意味緊張が解けて、翌年のコンクールをまずることになった楽団は多い。我がOB楽団もごたぶんに漏れずその傾向を示したのと、決定的要因は昭和41年(1966年)8月6日有永正人先生急逝に見舞われたことであります。精神的支柱としての先生の存在が如何に偉大なものであったことか、求心力を失ったOB吹奏楽団は、この年の仙台大会での2位を最後に、全日本の舞台に戻ってくることは2度とありませんでした。
その後、昭和60年8月11日の県大会銀賞まで、細々とコンクール県大会出場を続くが、この間関西大会に駒を進めたのは、まだ栄光の名残のあった昭和42年・43年の2度のみであります。