山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

人生の選択・就職活動

昭和40年正月から練習は益々厳しさを増してゆく中、4回生となった段階で人生の選択・就職活動にも励まなければならない。当時確か就職活動解禁は7月ころではなかったかな。世の中の景気はといえば、前年までの就職売り手市場であったのが、3月6日の山陽特殊製鋼の倒産(負債500億)に象徴されるように、一転不景気風がふきだしていた。そうなれば企業の学生選択も厳しくなるのは当然。そんな世の中の動きも無頓着に音楽関連の企業という訳でYAMAHA当時日本楽器製造株式会社を第一希望に選んだ。あとで分かったことだが、楽器やさんと音楽活動とはほぼ関係無いということ。そんなことも分からず受けた就職試験。開通したばかりの東海道新幹線で浜松へと出かけたが、なんと一次のペーパーテストで落ちちゃった。算数の問題が解けなかったんだ。(2年後弟・啓三が同じくYAMAHAにトライして見事入社を果たして勤めあげ2年前定年を迎えた。)そして殿村先輩が引っ張って下さった大阪ガスの入社試験を次に受ける。その次第は2008.6.26項に記したとうり、あえなく失敗。かなり力を入れて下さった殿村先輩にはいまだに申し訳なくおもっています。
出足でしくじった我が就職活動はこの辺りから迷走を始めた。阪和興業・杏林薬品等方針もなにもあったもんではない。究極は野村不動産を受けるつもりで発送した願書が、なぜか野村証券に届き、慇懃無礼な御断りの手紙を頂いたり。その後のことを考えると、野村不動産への願書が無事届いておれば、かなり違った人生の展開があったような気がします。なかなか決まらない就職はどうやら田中先生の耳にも入っていたらしい。
同じ学年ながら一年余分に学生生活を楽しんでおられた楠瀬さんも就職で苦労をされていた。その楠瀬さんが受けてダメだった株式会社入江商店が第3次の募集を懸けてきた。そろそろ内定を獲得しておかないと、サッカーのリーグ戦に差し支えてくる。西明石にも入江商店があるが、これは米と氷を売るお店だ。まさかそこまでのことはなかろうと、鉄鋼関連という情報のみを頼りに受けることとなった。