山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

卒論・新しい経営理念・資本主義の精神

曲がりなりにも就職の内定を頂いて、リーグ戦に突入した。このリーグの次第は「サッカー命の日々」に詳しく書いております。・・最終戦大阪府大と戦い3-0で勝利を収めて5位確保。なんとか入れ替え戦・3部落ちの最悪事態を回避。同志社大のグランドにもう二度とサッカーなどするものかと、オンボロシューズを投げ捨てて帰って来た身を待っていたのは、卒業論文の締切日でありました。12月25日4時限りとなっておりました。
ところで先に申し上げたマックスウエーバーが唱えるところの「資本主義の精神」とは何かといえば、近代社会に初めて現れた、適正利潤を守り、企業の存続を最優先して、日々営業活動に励むという行為そのものを現す言葉であります。考えてみれば、新大陸発見により世界の全容が解り、物産をある地点から遠くの地点に運びもたらすことひとつをとっても、そこには冒険的あるいは海賊的儲けを嫁しても十分商品価値を損なわない時代に、かなり控えめな一定の利潤を乗せるに止める動きがどうして起こってきたのだろうかという疑問。
マックスウエーバーはこれをプロテスタンティズムの倫理に求めました。カルバンを提唱者とするプロテスタンの教えでもっとも厳しい教えは「運命予定説」と言えます。このカルバンの予定説では、救済される人間は予め決定されており、旧教の説くように、人間の意思や努力、善行の有無などで変更することは出来ない。ましてや免罪符を購えば天国に行けるわけではない。だから自分が救われてあることの確信は、自分のみで確かめるしか道はなく、親兄弟といえども救いについては何の関わりも無い。出家して救いを求めたところで、予定されていなければ意味が無い。かくして、現世で禁欲的労働に身を任せ(世俗内禁欲)、社会に貢献し、この世に神の栄光をあらわすことによってのみ、自分が救われていることを確信できる。まことに凄まじい宗教的個人自覚作用であります。