山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

彼岸と比岸・価値合理主義

生まれてすぐにはお宮参り、七五三.毎年の誕生日はバースデーケーキを欠かさない。クリスマスには俄かクリスチャンと変身。毎朝家の仏壇に手を合わせる人も、神社の前を通る際は、深ぶかと一礼を捧げる。神仏キリスト混交の生活に何も不思議さを感じない大和民族にとって一番理解しがたいのがGOD BLESS MEの信仰の世界。まず神ありきの世界であります。神が存在することを前提とういうか、それが当たり前の世界と、神の存在を突き詰めて考えない世界。この彼岸と比岸が同居する現実。比岸にいる我々にはこの救われてあることの確信の重要さが理解できないが、カルバン派に代表されるプロテスタントにとっては永遠の命を与えられるか否かの瀬戸際ギリギリの関心事であります。ストイック(禁欲的)な生活、すなわち適正な利潤追求(社会生活そのもの)で当然蓄積される財は浪費されることなく富へと積み上がってゆく。この行為の総和が資本主義の精神を生みだしたというのがマックスウエーバーの云わんとするところです。中世の鍛冶屋の子は鍛冶屋、王の子は王となる封建調和の世界では考えられなかった個人・自己の覚醒が宗教的個人主義からもたらされ、ストイックな経済活動をより駆り立ているうちは社会のエートスとして確立されて、それはそれは理性・抑制の利いた秩序ある社会を生みだしておりましたが、世界が格段に広がり、民族・地域の経済競争の様相を帯びてきますと、手段であったはずの営利追求が自己目的化してしまうことになった。かくして現在社会は営利追求が全てを支配する化石化した社会と変貌してしまった。
 そこで、この現実社会を救うための新しい経営理念を提案しようというのが我が卒論でありました。、