山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

ダイエー屋上ビアガーデン①オープン

その後24年にわたり我が人生の方向を決めたビアガーデンは1875(昭和50年5月2日オープンを迎える。
その前にちょっとした経緯があって、GOD永田がシンエーフーズ・レストランブーンを誘致するにあたっての条件に屋上ビアガーデンの営業権もおまけにつけていた。そんなことから、ブーンからの返事を待って、ブーンが要らないと言って初めてブラジルにさせるか考えるということだった。実際はブーンから屋上は要りませんとの返事があって、我々にお鉢がまわってきたのだけれど、後になってその理由を聞かされて、それこそ腹を抱えて笑ったことだった。
このビアガーデンの店長に3年目ぐらいからおさまった南野某。彼は星陵高校のトランペットで、高校時代私とも明石高校・明石南高校・明石商業高校・星陵高校合同演奏で一緒にふいたことがあったらしいが、かなり音楽・JAZZの才能に恵まれていて、典型的なトランペット吹き気質で、自分中心で女子が大好き、その上お酒も大好きというより、お酒を飲まないと良いアドリブが出てこない。師匠の伊藤隆文までは行かないが、まことに羨ましいJAZZ野郎だ。その彼が、折角期待されて進んだ神戸消防音楽隊を女、それも共産党員の兄貴がいたらしい、に拘って辞めるはめになり、行き着いたのが、シンエイフーズ・神戸新聞会館屋上ビアガーデンであったとか。
もともと楽隊が本職で、とくにビアガーデンにうってつけで、各種音楽・バンドのアトラクションを引っ張ってきてご機嫌でいたらしい。その彼が、自分のお楽しみに走りすぎて、4・5年やったビアガーデンの成績はパッとしなかったらしい。まあ相当適当にやっていたのに違いない。シンエーフーズ社内では、ビアガーデンは儲かりませんということになっていた。。ましてや明石何ぞではやるわけがないと言うことに結論していた。
まあ南野ちゃんが熱心にやっていればこの時代かなりな売り上げが可能だったところ、適当にやってくれたお陰で、ビアガーデンなど要らないとの判断を下してくれたことが私には幸いした訳だ。
南野ちゃんの思いもかけない功によって、晴れてブラジルにとりあえずやらしてみようとなって、5-9月の期間開催のお許しが出た。・・・かのなんちゃんがケツの穴から火を噴くくらい走りまわることになるのもそう遠くはない。