山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

病床雑感

1日の夕方、妹が娘を伴って、おいしいプリンを携えて来てくれた。
親父の8人の孫の一番末。昭和58年のクリスマスに生まれたてのこの子を、やせ細った体に鞭打って、震える両の手にうだいて、やっと抱いてやることが出来たと、嬉し涙を流したあの子。
もう24歳だと。医療関係のソーシャルワーカーとして立派に社会人となりました。
話は弾んで、知らぬうちに面会時間終了となって、おっちゃんまた来ますといって帰って行った。
また来るといっても、おっちゃんのつもりでは、4日には退院のつもりやでと声をかける。

ベッドに転がってしばし瞑想しているうちに、昼間3時前に弟・啓三がかけてきた電話のことを思い出した。
この日、療養中の師匠・伊藤隆文を励ますため鍋を囲む会とやらを、この病院のすぐ近く、ほんの1キロ程先のライブハウス花園でやっているとのことだ。
電話が代わって伊藤さんが少し弱弱しい声で、伸ちゃんもこればよかったのにといってくれる。
伊藤さんは、あれだけ飲みあげて、ご本人は肝臓癌の初期やねんと言う。そうなんだろう。
早くラッパが吹けるようになって下さい。ぜひ復帰ライブを派手にやりましょう言葉をかわす。
そのあと、電話に出てきたのが、例のダイエー屋上ビアガーデンを当方にもたらしてくれたNちゃん。
伊藤隆文の愛弟子がうりで、坂出からトランペットを引っさげて駆け付けてきているらしい。
電話では、体を大切にとか、いろいろねぎらってくれてその場はすんだわけだが、どうも気持が納まらない。

今日はそのあとどうするのと聞けば、明日夕方までに坂出に帰れればいいんだとぬかす。
よく考えるまでもなく、Nは少なくとも、うちの飯を食った唯一のラッパ屋だ。
まあ少々音楽の才があり、付き合い上手で高校までは人気者だったらしいが、念願の神戸市消防音楽隊に就職。これを勤め上げておれば、いまごろは音楽隊団長として、押しも押されもせぬ存在になっていただろうに。
生来の女好きが高じて、手をだした女の兄貴が共産党員のバリバリで、別れ話がこじれて消防署にまで聞こえちゃって消防をやめるまめになっちゃった。
そのあとは、シンエーフーズの中内力社長に拾ってもらって新聞会館BGなどでお茶を濁してきていたはず。
沖縄博での短期仕事のかえり早々で、なんとかmusicinnボサリオで使ってもらえないかと泣きついて来たのがBG2年目の春だったか。
身一つならまだ何とでもなるが、愛人を伴っていて彼女は見るからにラージポンポン。出産間際。状況は最悪だった。
のちに本妻さんとも顔を合わすことになるのだが、この二人がどっちがどっちやねんと見まがうばかりに似ていて、Nは完全なデブ専
ある意味、お人よしの私は、茶園場町にアパートを借り上げてそこに住まわすは、何から何まで面倒を見さされた。そこまでしてんだ、少しは恩に着てもいいだろうに。
ご本人は、そんなことがありましたかとばかり.。そうなら今早速顔を見にゆきますは位は言いそうなもんだ。
しかしそんな言葉の欠片もでてこない。
弘子ちゃん曰く、「おとうさんほど、面倒を見てやっても感謝されない人はめずらしいね」と日頃からの口癖だが、まさにそのとおり。自分の不徳を恥ずべきか、相手の情の薄さにあきれるべきか。

しかしNは最低顔を見にくるべきだ。もし明日にでも音沙汰がなければ、今後絶交。
顔を出せば、この項削除といたしましょう。・・・たぶん来ないわ。