山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

It could have been much worse・不幸中の幸い

7日夕方、三男夫婦が私の快気祝いの為、急遽帰明。西明石・新幹線に出迎えた。退院3日目、かなり早いお祝いだが、本音は弘子ちゃんのお疲れ・慰労会であることは分かっている。
あの明石では超有名店だった明石屋の暖簾分けという松の内明石屋に席を構えて、4人が一息入れる。
娑婆のごちそうを待ちかねていた私にとって、この分明石屋の料理は、ちまちまとした会席屋とは違って、明石屋仕込みの、鯛・タコ料理をメインにした、一品料理のラインアップ。どんと鯛のあら炊きが出てきたときは、少々目では多いよとおもいながら、味付けで結構食べさせた。天然の鯛のアラはこんなに旨いんだと再認識。
この三男とは、昔からバイオリズムが、お互い似ていて、私が調子のいい時は、彼も調子が良い。
私が最悪の事態に見舞われているとき、彼も重大事件を起こしてくれた。しかし、幼少のみぎりから、彼の交渉能力は認めざるを得ないものがあった。今はかの富士ロックのプロデュサーとして、主にスポンサー付けの地味な仕事を手がけ、私と同じ自営の道、まっしぐらという具合。
話は自然と、我が家族の思い出にいたり、彼曰く、「親父の人生は言うとおり、不幸中の幸いを絵にかいたようなもので」と結論にいたる。お前さんもそうなるんだよと、お互い確認を交わす。
ところで、不幸中の幸いて英語でなんて言うのとの話になって表記でいいんじゃないということに。
そのあと立ち寄った、カラオケスナックで、彼が思わず[親父、無事帰ってこれてよかったな」と涙を見せた時には、思わず抱き合って号泣一歩手前。しみじみあとの人生、有益に過ごさねばと心の中で、噛みしめた。
翌日は、西区岩岡の鄙には稀なフレンチ・二コルでの昼食をともにして、東京に帰って行った。
また、弘子ちゃんと「二人ぼっち」になっちゃった。・・・心和やかな二日間、何よりの良薬となりました。
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