山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

明石予備校開校

思えばこの昭和56年のW-ビアガーデンオープン、そして昭和57年の頃が一番の最盛期だった。売上も全店で3億近くあって、すべてが順調に推移していくかに思えた。昭和56年の11月からは1年間明石人丸ライオンズクラブの幹事を務め、アンサンブルコンテスト第1回を昭和57年2月20日に開いている。翌昭和57年7月1日にはライオンズ国際協会335-A地区キャビネット運営委員に就任。年次大会をポートアイランド国際展示場で3000人あまりを集めて開催した際には、司会者として無事会を取り仕切る。
おまけにこの年の10月末、明石ジャスコ8階の残り半分を展示場として使っていた家具の加古屋が閉店・撤退となって、Kビル、N社長からまたまた何かアイデアはないかと聞かれて、ちょうど息子たちが中学受験の最中だったことと、教室をホールとして使えるようにしておけば、GOODTIME  CIRCUS の集客にも役立つと踏んで、学習塾などどうでしょうと提案したところが、早速OKとなって、6000万の資金まで用意された。
結局は学習塾よりは中学・高校・浪人対象の明石予備校を開校することになってしまった。メクラ蛇に怖じず、
まあなんてことをしてしまったものか。
教室への内装工事は早々と、12月1日に完成、早速新年パーティーの会場に流用したのは勿論です。
姫路・淳心の副校長を校長に迎え、自身は理事長に納まった入学案内が今に残っています。
今読んでも冷や汗ものの挨拶が記載されています。その当時は本気で大真面目もいいところ。川村君という明石高校OBの後輩の操られて踊っておりました。
結果、二男が見事白陵中学合格を果たした。これには親父の喜ぶまいことか。
開校PRの進学講演会を市民会館中ホールで開催したりして、4月開校となった。
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