山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

僕のアイディア工夫伝②ビデオ・カラオケ

① 昭和45年(1970)親父のボス・ゴッドファーザー永田の鶴の一声で今は駅前一等地になっている雑居ビル2階で
クラブ・ボサリオをオープンした際、ちょうど大阪万国博が3月に始まってばかりの頃。
ホールの正面に縦1メートル横3メートルはあろうかというスクリーンを張り込んで置いた。
普段はカーテン幕で隠してあるが、宴も酣となると幕を開けてスクリーンに万国博のパノラマ写真を映写してアトラクションのひとつとしていた。
お店にはエレクトーンを用意して専ら生オケが主流。エレクトーン奏者のギャラも馬鹿にならない。
そのうち8トラックのカラオケテープが出回りだして歌の伴奏はそちらに切り替えた。
そんなとき、いっそスクリーンに歌詞を映し出して客に歌わせば他のお客も退屈しないだろうとなって早速歌詞バージョンを用意した。
これがなかなか好評でそれ以上の工夫はしなかったが、もうすこし突き詰めておれば今のビデオ・カラオケの特許を取っておくぐらいの知恵が回らなかったものか、誠に残念。
巨大スクリーンがあればとその後、BGの舞台にソニー製の50インチプロジェクタースクリーンを設置したりしたが、どうにも画像がいまいち不鮮明。今時のパネルスクリーンがあの頃どれほど欲しかったことか。
それが実現するのに40年かかりましたね。
ダイエー明石店東館地階の喫茶ブラジルに実に簡単な伝言板を設置。それもタイムカードくらいの大きさの伝言カードを店頭のパネルにぶら下げるだけのこと。枚数にして約80枚ほどか。
これが知らぬ間に若者の間で人気となり店先でワイワイガヤガヤの人だかり。
なかには下らぬ落書きもあってそのチェックに忙しい。ようはいまの2CHの原始番だ。
そのうち新聞社も聞きつけて記事にされちゃった。マスター伝言板の前に立ってくれとか。写真まで出る騒ぎ。
しかし当の私はこれを電話に応用して伝言ダイヤルみたいなものが出来ないものかかなり頭を絞ったものだ。
だってまだ世間の連絡方法といったらポケベルの出現前だったはずで、留守電の機能もなかった。
事務所を構えればいやでも一人電話版が必要とされた時代だ。
これは電話Q2で実現しかなり儲けた御仁も続出した。もう少しのところで私も肖れたろうに。
いつも弘子ちゃんに言われることに『もう一歩詰めが甘いのよ』だって。