山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

メモリアル・ジャーニー⑨関ヶ原始末(序)

 長宗我部元親が人変わりしたのは、秀吉に命じられた島津征伐にでかけた戸次川の合戦で、長男・信親を戦死させてからだといわれる。
この信親の死後、早速家督争いが持ち上がる。この時、元親は二男・香川親和、三男・津野親忠を飛び越えて四男・盛親を後継ぎに選んだ。それも信親の娘を盛親に嫁がすまでして。
結果、二男親和は憤死、三男・津野親忠は香美郡岩村に幽閉されてしまった。
この際の、元親による盛親承継反対派の粛清は凄まじいものだった。
多くの重臣を失った事もあって、盛親はその後、謀臣・久武親直にその判断を左右されていくことになる。
さて、関ヶ原の際、元親と家康の繋がりからいえば、当然家康に味方する立場にありました。事実、お味方するとの密使を多数発したが、ことごとく石田三成配下の長束勢に捕らえられてしまい、その意を伝えられなかった。
仕方なく西軍の一員となった盛親は6600の軍勢を率いていたといわれる。その盛親はよせばいいのに、緒戦伏見城攻略戦に、毛利秀元吉川広家小西行長長束正家ら4万の軍勢で伏見城をせめて、家康の宿将・鳥居元忠を自害に追い込んでいる。
肝心の関ヶ原では、まったく戦意を見せず、戦場を逃げるようにして、土佐まで帰ってしまった。
さて、東軍家康の勝利となって、逃げ帰った盛親も、家康のもとへ許しを請いに行かねばならぬとなった時、謀臣・久武親直が「津野親忠公が藤堂高虎を通じ、家康に話をつけて、土佐半国を拝領する仕儀になっている。」
と囁いた。これに盛親は兄を亡きものにしてまで自分が生き残ろうとは思わないと断じるが、結果は、親忠を岩村・考山寺に囲み、自害に追い込んでしまった。