山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

メモリアル・ジャーニー⑩津野親忠の最後

 盛親が知ってか、知らずか押し寄せた軍勢が霊厳寺(のち孝山寺)を囲んだ時、親忠は碁を打っている最中だったと伝えられている。
家臣のものが、おめおめ討たれるより、一戦に及ばんとの進言をそれには及ばずと退け、そのまま悠然と碁を打ち終えて後、自若として切腹・自害して果てたという。亨年29歳。その命日9月29日には親忠を慕い惜しんでの孝山祭が津野の領内のそこここで今に伝えられています。
また、梼原に残る旅人をもてなす茶堂もその名残と言われています。
この一件はすぐさま津野の一族である中平精兵衛から藤堂高虎へと伝えられ、高虎はこれを家康に言上した。
関ヶ原での不戦組は、他にも毛利・島津があり、その方の戦後裁定は領地の一部召上げ止まりで、このあと盛親に下された改易という厳しい処分の理由として、この兄殺しがあったとされている。
家康はあの元親の息子にあるまじき所業として、即時うち首とまで断じたが、井伊直政の執り成しもあって、身一つでの解き放ちとなった。以後 盛親は大岩祐夢と称し、寺小屋の先生などしながら、京の片隅に身を置いた。
もちろん幕府方の厳しい監視のもとに。
その彼が、大阪冬・夏の陣前に長宗我部軍の首領として大坂城に乗り込み、最期の一戦を試みたことは皆様ご存じのとおり。その軍勢6000と伝わっています。