山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

突然の知らせ

 一昨日、妹の旦那から電話が入った。「突然で悪いんだけれど、郁子がどうやら膵臓がん、それも4期の診断を受けた。伸ちゃんにだけは知らせておかないとと思い電話した。」
一瞬、息を飲んで言葉が出てこない。「なんやてー」と叫ぶのが精いっぱいだった。
この正月我が一家が勢揃いして、二男も東京から呼び返し、やっと心穏やかな春を迎えると云う矢先、まだ60歳。
2男1女で誰も結婚はしていない。孫の顔もよう見ていないんだ。
親父の可愛いんぼで、お嬢さんで育った彼女が、ひょんなきっかけで直ぐ西区の高津橋の農家へ嫁いだのを昨日のように思い出す。その出会いは私が演出したもんだが、農家といっても旦那は母屋近くの上場企業工場に勤めていて、その工場の土地の一部を供出し、旦那は転勤なしの条件での勤務となっている。
出世を考えれば、転勤なしが良かったのか、悪かったのか、今になれば考えさせられるところだが、時には農作業の手伝いもしていたことだろう。毎年頂く吉川米は、我が困窮時本当にお助け米となった。
思えば、いろいろと気を使い、援助もしてくれた妹に、兄貴らしいことは何もしてやれていない。
衝撃の知らせから2日経って、やっと我を取り戻したころ、本人からの電話があった。
「お兄ちゃん心配せんでええよ、私元気だから、癌なんかに負けへんで。」と可哀相なぐらい気丈なことを云う。
だが、膵臓がんと云えば、沈黙の臓器と云われる膵臓に異変・兆候を知った時にはほとんどが、手遅れの状態で、早ければ3ヶ月。余命半年、1年あれば幸運とされる難病ということは知っている。
思いあまって、製薬会社勤務の二男に相談を掛けてが、二男からも膵臓がんは本当に調べていていやになる
過酷な病気だとの返事も帰って来た。
とすれば、今からでも妹にしてやれることは全部してやろうとの一念で、遺された日々を見守ってやるしか手は無い。親父を胃がんで見取るのに丸1年。母親は半年だった。
その際も、いま思えば無理な手術、あるいは無駄に苦しめた抗がん剤治療に頼り、失敗と云える苦い反省があります。
去年は兄弟そろって前立腺がんに罹り、摘出手術を終えたばかりだが、前立腺がんなど膵臓がんに比べれば稚戯に等しい。
妹一家には本当に衝撃は深くて、母親をバックアップするための臨戦体制に入っている。
我が兄弟も、あらゆる手助けの一員となって看護・看病に協力するしか道は遺されてはいない。
あとは、神仏に頼り、奇跡の生還を待つのみか。