山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬最後の帰郷⑩渡辺弥久馬と本山只一郎

 岡内は24日早朝、渡辺を訪ねたのではないか。
渡辺家は家格御馬回りで、禄高三百五十石、弥久馬は少年時代から文武に励み、吉田東洋に登用され、十三代藩主豊煕の御側物頭、近習目付、操練教授などを経て仕置役(参政)に進んだ。文政五年(1822)生まれで、この年四十六歳であった。後、斎藤利行と改名し維新政府に出仕、元老院議官になり明治十四年(1881)、六十歳で死去した。
岡内は渡辺弥久馬に会って「種々今般の事情、また薩長一致協力、大いになさんとする大勢を御内話し仕り」龍馬入国とライフル持ち込みの経緯を詳しく話した。
岡内は次いで大目付(大監察)本山只一郎(茂仁)の屋敷へ向かった。本山もまた上士勤皇派の同志であった。
本山このとき42才。容堂の側小姓、幡多安芸郡奉行、藩主豊範の御側物頭などを務め、前年から大目付に進んでいた。
龍馬が容堂と豊煕の側近にいて勤王派の実力者である渡辺と本山を目標に定めたのは、佐々木の示唆もあったであろうが、さすがに的確な判断であった。
岡内の話を聞いて「御両所大いに奮発、御聞き取り、御決心に相成り」、龍馬と秘密に会見する事を約束した。
会談の日時は翌二十五日暮六ッ(午後6時)、場所は松ヶ鼻の某茶店と決めた。