山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

龍馬街道後記・戸次川古戦場

 龍馬街道と名付けて佐賀関に上陸。その夜の宿を別府温泉にとるべく別府湾岸を走行中、確かこの辺りに我が津野一族最後の津野親忠の悲惨な最期を招いた原因となる戸次川古戦場があるはずと、川を渡るごとに川の名前を確かめた。
結局、新日鉄大分製鉄所が面する大野川を確認したのみで戸次の名前は見当たらなかった。

帰宅して真っ先にこの戸次の地理を調べた。
なんと、大野川の流域の内、戸次庄を流れる当たりを戸次川と称したとある。
戸次庄辺りには戸次川古戦場の名残も有り、長宗我部信親の墓も立派に守られている。
元親・信親親子を守って奮戦するも土佐の精鋭700が殲滅された。他に豊臣軍2000が島津家久釣り野伏せの奇計に嵌り、この頃の合戦でも屈指の犠牲者を出した一戦とされる。
もう少し事前に詳しく調べておればと臍を噛む。

信親がこの合戦で死ななければ、長宗我部の後継者として、歴史に残る名将の名をほしいままにしたと言われる出来星だったと言われる。
まして元親の失意による人変わりもなく、関ヶ原の合戦での旗色を現す判断も間違えることなく、ましてや盛親がはやまって家康による一国取り上げの理由とされた津野親忠自刃も起こるはずもなく、時代は下って幕末、土佐から草莽も起こらず、龍馬も出現すべくもない。時代は大きく違ったものになっていた筈。
誠に、津野にとっても、土佐の民人にとっても痛恨の一大悲劇となった戸次川合戦。
さて、また訪れる機会があればよいが。
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