山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

私的サッカー事情今昔

 自分の体験として、まずサッカー今昔を語れる歳になったことに驚く。
齢68歳、今更ながら、サッカーのことになると人が変わると弘子ちゃんが言います。
今までの人生で心おどったことの1つがサッカーの練習に早く加わろうとするときの高ぶり、もう1つがブラスバンドの練習に急ぐ時の高ぶり。
確か神戸大学付属明石小学校の3・4年。不思議とこの小学校の校内対抗の競技がサッカーでした。
大概の学校が野球・ソフトボール一色の時代にだ。
多分3年ぐらいからボールと遊んでいたはず。指導して下さったのは学級副担任の吉井先生。
あとで知ったが、兵庫県教員サッカーの補欠だったとか。
先生のいかにもゴツイサッカーシュウズが印象に残っている。
5・6年とわが「い組」のセンター・ストライカーを務めた。
華麗なドリブルでゴールを連発。勉強は苦手だがサッカーでは十分自分の存在感を示せた。
小学校の卒業アルバムに恩師北田先生がもう少し身体が大きければオリンピック選手になれるのにとまで書いて下さった。かなりのヨイショだ。
中学にはサッカー部が無かった。仕方なくブラスバンドトロンボーンを吹いた。
その流れで高校でもブラスバンド。OBでの5年の間に一般の部で日本一5回を経験。
しかし、サッカーを忘れていた訳ではなかった。
神戸商大には吹奏楽部が無く、仕方なくグリークラブの門を叩いたがどうもしっくり行かない。
そんな時、そうだサッカーが有ったとばかりサッカー部に出向いて、遅ればせながら入部を申し入れた。
小林主将が経験はと仰る。小学生からですと申告すると何故か笑われた。
商大サッカー部は高校あるいはまったくの初心者がほとんどあとで知った。
急な練習で40度近い熱を出してぶっ倒れたが、その後はなんとか体力が付いて来た。
その頃のサッカー人気はお粗末そのもの。3部の試合となれば観衆は皆無。誰も居ないスタンドを背にそれでも必死の形相で走っていた。
大学1年の夏合宿。京都・西京極のグランドで練習後のかたずけをしていると、失業対策の叔母さん達が番茶を振る舞ってくれながら、兄さんたちは何ぼ貰って走っているのと聞かれたことを思い出した。
2・3年は気楽にサッカーを楽しんで2年では2部昇格の痛快ゴールも決めた。
4年となって3部陥落の予感激しく、突如練習の鬼に変身。当時のメンバーにはいまだに恨まれるほど激しく練習した。お陰で3部陥落だけは免れた。
そう、最終大阪府大戦で勝った時にはグランドにシュウズを放り捨てて二度とサッカーなどするもんかと叫んだ。・・・と目撃者・弘子ちゃんの証言がある。
それがなんと40年余、OBとして何らかの関わりを持ち続けてきた。そしてクラブは創立80周年となった。
いまやサッカーはワールドカップに代表を送れるほどメジャーなスポーツとなった。
小学生も野球よりはサッカーを選ぶ。
スタンドも観衆が詰めかける。
我が総領孫も神奈川で小学1年から瀬谷FCに入った。今年で2年目。ポジションはと聞くとボランチとぬかした。これだけでも驚嘆に値する。今一番の楽しみは孫の試合を見に行くこと。神奈川少年サッカー小学2年の秋季トーナメントが有るそうな。
実はこの一週間ほど前から、糖尿・メタボ対策にマンションの壁を相手にボールを蹴っている。
サイドキックばかりだが300-400位は連続で続けられる。
この手ごたえなら24日の淡水サッカー総会でのOB戦に出てみようかな。