山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

萩市・有備館道場

 龍馬は1862年武市半平太の書状を持って萩に行き、10日間滞在した。
この間、長州藩有備館道場で剣術を披露、また久坂玄瑞等と接触し、在野の志士が決起すべし(草莽倔起)
との教示を受けた。
その結果、2ヶ月後の脱藩につながった。
ここまでは数ある脱藩志士の行動と変わりはない。
果たして、龍馬はどの時点で龍馬独自の路線へと舵を切ったのだろうか。
その路線変更が無ければ、この日本は一体どうなっていたことだろうか。
有備館は木造平屋建てで板間の剣術場と土間の槍術場がある。
長州藩の藩校「明倫館」の敷地内に1849年に建てられ、藩士やほかの藩の修行者が剣・槍の腕を磨いた。
龍馬も早速道場に引っ張り出されて腕を試されたに違いない。
武士・侍たるものいくら弁が立っても、最終剣術の腕が無ければ通用しない時代だ。
また、この剣術修行は藩に対して江戸・京に出て行く上での大義名分となった。
多くの若者が青雲のあるいは国を思う余り、剣術修行と称して藩を飛び出していった。
勿論、それぞれの藩ゆかりの道場で修行した訳だが、全国各地から集まった弟子同士での情報交換・情勢分析が行われ、その絆を強めていくと言う効果もあった。
云わば情報伝達のメディでもあった訳である。
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