山陽立地・つれづれDEEP

10年にわたって書き散らかした事々を、この際一か所にまとめた

津野興亡史⑦敬神家の経高

 こうして経高は津野の庄の領主として、1千町を有する身となったので、先ず如何にしてこの土地を開拓し、如何にして人民を統治して行こうかと考えた。自分の領地を良く開拓統治して繁栄せしむるのは自分の責任と言える。
この大責任を我々の力だけで叶えられるのか。自身は知識も思慮もない人間である。とくに、先般には一大事を企て、たちまち破れてしまったのは考えの浅い我であったせいである。
そのような身で如何にして、この重責を全うすることが出来るか悩んだ末に、こうなればもう神に頼る他は無く、神の命じられるままに働くより他は無いと考え付いた。
そこで、京都愛宕郡の鎮座まします霊験誠に顕たかな上鴨大神宮を勧請して、津野の本庄に、賀茂大明神の社を建立し、朝夕、拝礼を怠らなかった。
元来この上賀茂神社の祭神若雷命(ワカイカヅチ)は、鴨建角身命(カモタケツノミノミコト)の御子であり、皇国の基礎を固められた神武天皇の御東征の途中、紀州の熊野より、大和にお入りになった際、道険しくその上方角も分からないなか、皇師は非常に疲労して天皇も士卒も一時は途方に暮れていた。
その時、高木神(タカキノカミ)はヤタガラスを使いとして軍の先導せしめられたので、なんとか大和にお入りになることが出来た。
即ち、このヤタガラスと言うのは、鴨建角身命の事であって、中州(チュウシュウ)平定後、天皇は命の功績を賞せられて土地を賜うたとのことが、古事記傳に記されている。
ことに、若雷命の御母は、海神の化身である玉依比賣(タマヨリヒメ)である。
このようなことから、津野の庄も中州が平定されたように、次第次第に開拓されんことを祈って、今の多ノ郷(オオノゴウ)村鴨宮に鎭祭し奉ったものらしい。
この時、経高は神田として8町歩を寄進し、神官社人80人も配し年中厳重に祭祇を絶やすことがなかった。